Stewart Cohen (2000) "Contextualism and Skepticism"の読書メモ

Stewart Cohen (2000) "Contextualism and Skepticism"の読書メモです。

 

https://drive.google.com/file/d/1OR9VgTv4pnX-ijfI4faYM2VftovOBwB2/view?usp=sharing

 

・Cohenの文脈主義のポイントは、知識帰属者(知識帰属文の主張者)の置かれている文脈によって、主体の持っている理由ないし証拠が知識を帰属されるために十分良いものであるかどうかが変わる(理由・証拠の良さについての基準が文脈依存的

・Cohenは、可謬主義(持っている理由ないし証拠がpの代替と両立してしまう場合でもpを知っているということがありうる)を擁護する。Cohenの立場は可謬主義+文脈主義 (cf. D. Lewisは文脈主義を「可謬主義と懐疑論の中道」として提示していた)

・理由ないし証拠への誓約を強くすると懐疑論に陥りかねない。論理的含意原理(entail principle)は、主体がある命題を知っているためには、主体の持っている理由ないし証拠が当該命題を論理的に含意する(当該命題と非両立的な代替命題を全て否定することができる)ということを要求する。しかしこの要求を課すと懐疑論に陥る。この原理を否定するのがCohenの定式化する可謬主義。

・論理的含意原理を拒絶しても、閉包原理による懐疑的論証がある。ムーアは、閉包原理と我々は日常的知識を普通に持っているということを認め、「我々は懐疑的代替が成立していることを知らない」ということを否定しにかかるが、彼の応答はなぜ懐疑的論証に訴えかける力があるのかを全く説明できておらず、満足いくものではない(論点先取に見える)。Cohenは、この懐疑的論証を、いずれももっともらしい三つの命題が両立しないというパラドクスと捉える。文脈主義を取ると、日常的知識帰属文が真だということを保持しつつも懐疑的論証のもっともらしさも説明できる。これは文脈主義の強み。

・しかし、すんなり扱えるのは巧妙に偽装されたラバの例のような「制限された(restricted)懐疑的代替」のケースのみである。水槽脳事例のような「全面的な(global)懐疑的代替」への応答には問題が残る。一つの方策は、全面的な懐疑的代替を否定するのはアプリオリに合理的だと主張することだが、それをやると私は水槽脳でないということを私は知っているということになり、しかもその知識は偶然的アプリオリなものになる。一方で、Kleinの議論を文脈主義化してやれば、一見良さそうな見解が出てくるが論点先取感マンマンの説になってしまう。懐疑論は嫌なので偶然的アプリオリな知識の存在を認めるしかないのかねぇ...というところでこの論文は終わる。