J. Greco (2003) "Knowledge as credit fore true belief" 読後ノート

Greco (2003)を読んだのでメモ。

 

Grecoは可謬主義(前の記事参照)を擁護するのだが、可謬主義には①宝くじ問題 ②ゲティア問題 が立ちはだかる。いずれの問題も、知識帰属の重要な発語内の力を考慮に入れると解決できる。この点を考察するために、Grecoは「誰かに知識を帰属させる際に我々は一体何をやっているのか」と問う。彼の答えはこうだ。:知識帰属の中心的諸機能の一つは、真なる信念にクレジットを与えることなのだ。どういうことか。「Sはpを知っている」と述べる際、我々は、Sがpに関して正しく物事を捉えているのは、単なる偶然によるものではなく、S自身の能力によるということ、すなわちSが適切な仕方で推論したということや、物事を正確に知覚したことや、きちんと覚えていたことなどによるのだ、ということを言おうしているのだ。そしてこの点を考慮に入れると、可謬主義に対する上の二つの問題が解決できる。これがGrecoの戦略。

 Grecoによる応答は、大雑把には次の通り。宝くじ事例においては、自分のくじは外れるということをSが信じている時、Sが物事を正しく捉えているのは偶然に過ぎないように見える。また、ゲティア事例の場合、当該信念が真であるのは明らかに偶然に過ぎない。それゆえにいずれのケースにおいてもクレジットが帰属されない。このことをもっときちんと論じるために、GrecoはFeinberg (1970)の、道徳的非難の帰属に関する議論を引き合いに出し、クレジット帰属の一般理論と、特定の知的クレジット帰属についての理論を構築する。

 Feinbergは、非難の実践に関する洞察を得るために、因果的説明の語用論に目を向ける。それによると、「Yが起きたのはXが起きたからだ」と語るとき、我々はXが生じたことを、Yが生じたことの背後の因果的物語の中における特定の重要なないし際立った部分として目立たせている。ここから彼は次のポイントを引き出す。ある出来事に関してある人に責任を帰属させる際、我々がなすことの一部は、その人にその出来事について因果的責任を割り当てること——これは、その出来事がなぜ生じたのかに関する正しい因果的説明においてSが登場するということを我々が意味するということ——である。これは、ある人の行為の帰結のためにその人が非難されるケースを見るとわかりやすい。例えば出火に関してある人を非難するときはその人の行為がそれを引き起こしたということが含意される。

 では、何が際立ち(salience)ないし重要さを決定するのか?様々ありうるが、Feinbergは二種類の考察を特に重要なものとして挙げる。①説明は、完全な因果的プロセスの様々な必要部分の中で、その事例において異常(abnormal)なものや、期待に反するものをしばしば選び出すだろう。② 我々の関心や目的も、salienceを決める一要素である。

 Feinbergのもう一つの大事な論点は次である:我々がある行為についてある人を非難するとき、我々は、その行為がその人自身について〔その人の性格characterについて〕何か重要なことを明らかにするのだということを含意している。この点でFeinbergは強すぎることを言っているかもしれない。その人の人格と関係なしにその人のある行為が非難されるということはありうる。しかし、彼の言っていることが当たっているような、ある種の強い非難というものはある。この強い種類の非難は、ある強い種類のクレジットの対応物である。しばしば、ある行為へのクレジットはその人に関する判断をも含む。それは単にその人が何か良いことをなすことに責任があるというだけでなく、有徳な性格の顕在化だということを含意する。以上のことを合わせると、行為への非難に関するFeinbergの説明は次のようにまとめられる。

 

ある人Sが行為Aについて道徳的に非難されるべきなのは次の場合に限られる。

  1. Aが道徳的に誤った行為であり、
  2. AはSに帰されうるものであり、
  3. AはSの誤った道徳的性格を露わにしている。

 そしてFienbergは、非難の帰属が因果的説明と同じ語用論を共有していると結論づける。上の(b)を見れば明らかなように、非難を帰属することは行為を帰することを含み、行為を帰することは因果的引用を含む(c)も、非難の帰属が因果的引用を含むということを保証する。というのも、行為が性格を露わにするというのは、行為が性格から帰結するということなのだから。つまり、(c)は次のようにも読める。

 

c’. SがAをしたのはSが誤った道徳的性格を持っているからである。

 

(c’)を、Sの行為を引き起こしたのはSの性格だけだと読むのは強すぎ。また、Sの性格が与えられればSはAをするほかなかった、と読むのも強すぎ。上で見た因果的説明の語用論を思い出すと次のような読みができる:Sの行為がSの性格の帰結だと述べることは、Sの性格がそのストーリーの中のある重要な部分である、あるいはひょっとすると最も重要な部分であると述べることである。この読みなら強すぎないし、人の行為のソースに関する我々の常識的態度を反映した読みになっている。我々はしばしば人の行為をその人の性格によって説明することがある。彼がお金を出さなかったのは彼がケチだからだ、など。

 

 Feinbergの道徳的非難に関する説明を、①「行為への非難」を「行為へのクレジット」に一般化(非難はネガティブなクレジット) ②クレジットを道徳的なものからより一般的なものに拡張すると、次のようなクレジットの一般理論が得られる。

 

ある人Sが行為Aについて種類Kのクレジットに値するのは次の場合に限られる。

  1. Aが種類Kの価値を持っており、
  2. AはSに帰されうるものであり、
  3. AはSのKに関連する性格を露わにしている。すなわち、SのKに関連する性格が、SがAするということを引き起こす因果的諸要因全体の中の重要な必要部分である。 

 

野球の例を見てみるとわかりやすい(省略。論文だと 122)。優秀だと知られている選手がその能力を発揮したが故にボールをキャッチした場合は敵の応援も褒めてくれるが、単に運よくボールがグローブに入った場合は敵の応援は残念がるだけで別にその選手にクレジットは帰属されないだろう。面白いのはヘタクソな選手デントの例。いつも凡打ばかりのデントがホームランを打ってヤンキースが勝った。この場合、敵チームのファンはデントにホームランに関するクレジットを帰属せず、「あーあ、運が悪かったな」と言う。一方でヤンキースファンはデントにクレジットを帰属させてヒーロー扱いするだろう。敵ファンはデントの能力ではなく運の問題だと考え、ヤンキースファンは運ではなくデントの能力を強調する。敗者は運の役割を強調することでクレジットを否定しようとし、勝者は能力に強調点を置くことでクレジットを受け取ろうとする。

  人に知識を帰属させる際に我々はその人が物事を正しく受け取ったことについてその人にクレジットを与えようとする。つまり、彼が真な信念を持っているのは、単に運が良かったからではなく彼自身の認知的能力のおかげなのだ、ということを含意する。Bでの説明を適用すると次のようになる。

 

ある人Sがpに関して真なことを信じていることについて知的なクレジットに値するのは次の場合に限られる。

  1. pに関して真なことを信じていることが知的価値を持っており、
  2. pに関して真なことを信じていることはSに帰されうるものであり、
  3. pに関して真なことを信じていることはSの信頼可能な認知的性格を露わにしている。すなわち、Sの信頼可能な認知的性格が、Sがpに関して真なことを信じるということを引き起こす因果的諸要因全体の中の重要な必要部分である。 

以上より次のようになる。

 

Sがpを知っているのはpに関して真なことを信じていることがSの信頼可能な認知的性格を露わにしている場合に限られる。すなわち、Sの信頼可能な認知的性格が、Sがpに関して真なことを信じるということを引き起こす因果的諸要因全体の中の重要な必要部分である場合に限られる。

 

 ここで、Grecoの見解と標準的文脈主義を比較しておこう。いずれの説明も文脈主義である。いずれも知識主張の真理条件を帰属の文脈に相対的なものと捉える。しかし、帰属の文脈の働き方が違う。

標準的文脈主義に従うと、帰属の文脈は知識の基準を決定し、基準は異なった文脈に相対的に高くなったり低くなったりする。

Grecoの説明に従うと、帰属の文脈は様々な寄与する因果的諸要因の際立ちを決定し、それゆえに真なる信念への責任を決定する。知識の基準は上がり下がりしない。複合的出来事(誰かが真なことを信じること)への責任が文脈に従ってその信念主体にクレジット可能だったり不可能だったりするのである。標準的文脈主義は、なぜ宝くじの場合にSの帰納的推論がSに知識をもたらさないのかについての説明がたできないが、自分の説明の方にはある、というのがGrecoのアピールポイント。宝くじという考え自体にchanceという考えが含まれていることから、なぜ宝くじの例においてchanceが際立つのか説明できる。そして、際立ったchanceがクレジットを毀損する、という一般原理を適用することで、なぜ宝くじの場合にSの帰納的推論がSに知識をもたらさないのかについて説明できるのである。(詳しくは省略)

 

ゲティア問題に対してはどうか。この問題に答えるため、Grecoは知識の必要十分条件を提示する。

  • Greco(2000b)などで、Grecoは次の条件が知識にとって必要だと論じた。

 

Sがpを知っているのは次の場合に限る。

  1. Sがpを信じていることが次の意味で主観的に正当化されている:Sがpを信じていることはSが真理を信じようとするときにSが表出する傾向性の帰結である。
  2. Sがpを信じていることが次の意味で客観的に正当化されている:Sがpを信じることを帰結するその傾向性によって、Sがpを信じることにおいて信頼可能である。言い換えれば、Sがpを信じることを帰結するその傾向性は、知的能力ないし力ないし徳によって構成されている。
  3. Sがpに関して真理を信じているのは、Sがpを信じることにおいて信頼可能だからである。言い換えると、Sがpに関して真理を信じることを帰結する知的諸能力(すなわち、力ないし徳)が、Sがpに関して真理を信じることをもたらす因果的諸要因全体の中の重要な必要部分である。

 

大事なのは3で、これによってゲティア問題に答えることができるとGrecoは言う。詳しくは省略。 

 

 

以下、気になる点:

1. 「真なことを信じる/信じている」は、行為ではないのでは?クレジットの一般理論から知的クレジットの理論をGrecoはサクッと出しているが、少しギャップがあるように見える。

 2. 結局、salienceや説明の中の標準性/非標準性がよくわからない。グレコの立場だと、多分、ある事態についてどういう説明が可能か/適切か が知識帰属の文脈によって変わり、何がsalientかは当然どういう説明をするかによって変わるので、それゆえSにpの知識を帰属させることが適切かどうかは帰属の文脈によって変わる、とだいたいこんな感じか。しかし、同じ帰属の文脈で異なった説明をいくつか与えることはできないのか?もしできるなら、説明ごとに何がsalientかは変わりうるのでは?つまり、帰属の文脈の情報を参照するだけではその知識帰属が適切かどうか決まらないのでは?

3. Grecoは結局、帰属者の文脈によって「Spを知っている」の表す内容が変わると言っているのか?それとも内容は文脈によって変わるわけではないが、その内容から真理値を計算するときにcircumstanceによって真理値が変わる、と言っているのか?