村下孝蔵「初恋」の歌詞に関する一解釈

 妙に寝付けなくて久々に村下孝蔵さんの「初恋」を聞いたら、改めて良い歌だなぁと感動し、頭がグルグル動き出して却って眠れなくなった。頭の中に湧いてきた考えをどこかで吐き出さないと永遠に眠れない気さえしてきたので、ブログ記事として書き出してみる。

  村下さんが亡くなって21年が過ぎた。村下さんは知る人ぞ知るシンガーソングライターであるが、特に若者の間ではそこまで知名度が高いわけではないかもしれない。私も若者だが、私は中学生の頃に彼の歌に出会い、それいらい彼は私がもっとも愛する歌手であり続けている。悲しいかな、好きになった時にはすでに故人だった。「もしも花びらを集めて 青空に心を描いて 遠くのあなたまでそのまま 伝えることができたなら」(「花れん」)と思うが、叶わぬ夢である。

 彼の歌の中で最もよく知られているものは、間違いなく「初恋」であろう。以下で、村下さんの「初恋」の歌詞に関する私の解釈を、覚書として記しておく。野暮だとは承知の上だが吐き出さないと眠れないのでしょうがないのである。

 「初恋」は次のように始まる。

五月雨は緑色  悲しくさせたよ一人の午後は

どうしてこんな歌詞が書けるのだろうかと聞くたびに驚く。何とも美しく秀逸な表現だと思う。

 まず「五月雨は緑色」についてであるが、このフレーズは言うまでもなく文字通りに受け取られるべきではない。五月雨が降る季節というのは新緑生茂る頃であり、その時期の登下校において傘をさしながら道を歩くとき目に入る光景は、ザーッ...と降る雨が青々とした木々や草たちを濡らす様であるはずだ。雨に覆われる新緑のイメージ、これが「五月雨は緑色」によって喚起される。この「緑色」は、決してクリアな、フレッシュな緑色ではないだろう。日が雲によって隠され薄暗い中で雨に覆われている、くすんだ、とでも言うべき緑色であろう。そしてこれが、(明示されているわけではないが、)決して晴れないかつての「僕」(=この歌の主人公)の心を暗示しているのだ。

 その上で、「悲しくさせたよ一人の午後は」である。先に示された梅雨の情景から、アングルが変わって「僕」の姿が浮かび上がる。ここで「僕」の悲しみという心情がダイレクトに述べられるわけだが、そこにおいて「一人」が強調されることによって、恋した相手である「君」に近づけない「僕」の孤独感が暗示されている。「午後」についてはいくつか解釈が可能だろうが、たとえば学校からの帰りの時間帯を指していると考えることができるだろう。実らない恋の切なさと孤独感を感じつつ、悲しみに暮れながら傘をさして歩く一人の帰り道で、雨に濡れている木々や草々が見えている、そのような状況だと私は解釈している*1

恋をして淋しくて 届かぬ想いを暖めていた

 聞き手は「初恋」というタイトルによって既に了解していることではあるが、ここでこの歌のテーマが恋だということが初めて示される。そしてそれが、思いを告げることのできない、もどかしい恋であり、ゆえに「僕」は「一人」であり、「淋し」いのだということがここではっきりとわかる。

 そしてサビである。

好きだよと言えずに初恋はふりこ細工の心

 これが初恋だということがここで改めてきちんと述べられる。ここまでで既に暗示されていたことだが、やはり「好きだよと言え」ないのである。「ふりこ細工の心」とは何だろうか。「ふりこ細工」とは、おそらく村下さんの造語であって聞き慣れない語だが、おそらく小さくて繊細な、ふりこを構成要素として持つような器械のようなもののことを指すのだろうということがすぐに連想できる。何か、行ったり来たりする繊細なもの、というイメージが、このフレーズによって想起させられる。そしてこれに「僕」の心が重ね合わされる。思いを告げられない初恋というのは、一方で思いを胸に秘め続けておくことは苦しく、一方でそれを告げてしまうことが怖いものであろう。この心を伝えたい、だけど伝えたくない、だけど...と行ったり来たりの葛藤を繰り返す、そんなかつての繊細で臆病な恋心、それが象徴的に示されているのだと思う。

放課後の校庭を走る君がいた

 ここで、またアングルが変わる。ここまではかつての「僕」の心がずっと注目されていたわけだが、ここで視点がかつての「僕」の目に移動している。しかし、この景色がそれ以上詳細には語られることはなく(それゆえにこそ、聴き手は自らの初恋の記憶をここに投影することができるのだが)、再びアングルが変わるのが次のフレーズである。

遠くで僕はいつでも君を探してた

 再び焦点が「僕」に向けられる。本当に好きだからこそ、近づくことさえできず、だけれども「君」に心奪われてしまっているが故に、「君」を探さずにはいられない。そんな様子がありありと浮かぶ。そしてこのイメージの余韻を残したまま、もう一度視点が大きく動く。それがこの歌の一番の最後のフレーズである。

浅い夢だから 胸をはなれない

 この歌の中で現在形の動詞が使われるのは、このフレーズ(と、曲の終わりのリフレイン箇所における「今もはなれない」の二つ)のみである。この歌は基本的に過去形の歌である。ただし、過去の思い出に没入する形で初恋のあり様が歌われているわけではない。この歌は、いまから過去を振り返る歌、いまの「僕」の視点から過去の「僕」を見つめている歌なのである。そしてその過去のイメージは、「浅い夢」のようだとされる。「浅い夢」というのは、浅い眠りの時に見る夢のことであろう。夢とうつつの間が曖昧であり、夢で見たことがリアリティを持ちながらも、実際に眼前に見えるものにはもはや夢で見られた事柄の痕跡はなく、自らの記憶を探ることでしかその景色を見ることができない、だけれどもどこか生き生きとして忘れられない。初恋の頃の「僕」の姿は、その心は、そんな「浅い夢」のように忘れられず、いつまでも「胸をはなれない」のだ。

 ここまででいったんこの歌の歌詞の特徴をまとめておこう。思うに、次の三つが挙げられる。

 ・比喩の巧みさ/情景描写のうまさ

 ・視点/アングルのダイナミックな切り替わり

 ・いまから過去へというベクトル

初めの二つは、「初恋」に限らず村下作品の多くに共通して見られる特徴である。「比喩の巧みさ/情景描写のうまさ」についていえば、例えば次の歌詞を見て欲しい。

風に舞った落ち葉は 雨に濡れて 行き交う人に踏まれ 形をなくす どんな言葉つくして 話し合っても みんないいわけになる 説明はできない

(「だっこちゃん」)

彼の歌には、このように、ある自然の景色・状況の描写がしばしば入る 。それによって我々はある印象や映像を思い浮かべ、それに伴って何らかの感情を得る。そしてそれが、言葉では如何とも表現しづらい心情を的確に聴き手に伝えることにつながっている。加えてこのような歌詞の特徴のゆえに、彼の歌を聴くと、我々の脳裏には絶え間なくイメージや映像が浮かぶ。そこに、先に指摘した「視点/アングルのダイナミックな切り替わり」が繰り返し起こることで、脳裏のイメージが次々と別アングルからのイメージへと移り変わっていく。それゆえに、彼の四分ほどの歌を一曲聴くだけで、まるで映画を一本見たかのような錯覚に襲われるのである。

 加えて「初恋」に特徴的なのは、いまから過去を見る視点が常に背景にあるということである。初恋は、遠い昔の記憶であり、夢のようにどうしてもおぼろげである。村下さんはあえて初恋の主体になり切るのではなく、初恋に落ちていた当時の「僕」をあくまでいまの「僕」の視点から見つめているのである。それゆえにこの歌は、どこか郷愁に満ちている。しかもその際、個別的な事実を詳細に語るのではなく、当時の「僕」の心を、イメージを多用しながら抽象的に歌い上げる。だからこそこの歌は、個々の聞き手の思い出をそれぞれに刺激し、各人が初恋の思い出を投影できるのである。*2

 

 さて、二番に移ろう。二番の歌詞全てについてここまでと同じ密度で論じることはしないが、二番のサビについてはコメントをしておきたい。二番のサビは、一番と同じ「好きだよと言えずに 初恋はふりこ細工の心」に次のようなフレーズが続く。

風に舞った花びらが水面を乱すように 愛という字書いてみてはふるえてたあの頃

 「愛という字書いてみてはふるえてた」とはどういうことなのだろうか。私は、この歌の歌詞の中でこの箇所にだけずっと違和感を抱いていた。なぜ「愛」なのか。そして「ふるえてた」とはどういうことなのか。

 この歌は、最初から最後まで「恋」の歌であるはずである。二番のこの箇所以外では、「僕」の思いは「恋」と述べられている。にもかかわらず突然「愛」という語が出てくることに、私は違和感を持っていた。ここに違和感を抱かない人も多いかもしれない。しかし、私個人の語感としては、「恋」と「愛」は適用される状況が微妙に違う。特に、片思いの初恋におけるあの思いを、愛と呼んで良いのか、私にはよくわからない。ここで私は恋と愛の違いないし関係について何かを述べるつもりはないしそんなことはできない。ただ、言ってしまえばたかだか子どもの恋心に「愛」というのは些か大仰ではないか、とそう感じてしまうのである。

 しかし、歌詞を改めてよく見てみると、ここで愛が言及されているわけではないということがわかる。言及されているのは、「愛という字」なのである。このことに気づいたことで、ようやくこの箇所が理解できたような気がした。私の解釈は次の通りである。いまの「僕」は、当時の「僕」の思いを「愛」とは呼んでいない。一貫して「恋」と呼んでいる。やはり、その頃の思いを「愛」と呼ぶのは不自然であり、「恋」が最もしっくりくるのである。しかし当時の「僕」は、初めて恋に落ちたのであり、自らの抱いているその思いが何であるかについての判断力がまだ十分にはない。「とらわれた心 見つめていた」(「初恋」二番)のが当時の「僕」であり、その思いが何なのかを初めて確かめようとしたのがまさにその時のはずなのである。そして、言葉を探していた当時の「僕」は、些か大仰に、それを「愛」と名指したのだ(歌詞中では愛という「字を書く」と述べられているが、これは、「愛」という言葉を自らの心の状態に当てはめたということを表すメタファーだと私は解釈する)。そして、自らの思いを名指して用いたその「愛」という語の響きの重さに怖ろしささえ覚えてしまう。それが、「愛という字書いてみてはふるえてた」ということなのではなかろうか。

 

 「初恋」は「胸をはなれない 今もはなれない」のリフレインで終わる。余韻として残るのは、この歌によって呼び起こされた聴き手自らの初恋の記憶であり、それは、思い出そうにももはや鮮明には思い出せず、だけれども忘れることもできない、懐かしくて特別な、在りし日の「浅い夢」なのである。

*1:ここで、「僕」は文字通り一人でいる必要はない。たとえ友達に囲まれていても、叶わぬ恋に悩む時には、友達の存在は背景に退いて、好きになってしまった人のことしか頭にないだろう。この歌の中では、恋する「僕」と恋される「君」以外の登場人物は背景に退いてしまっているのである。

*2:「初恋」の歌詞の抽象性およびその効果についてはさにーさんが指摘する通りである( https://reminder.top/657119791/ )。村下さんへの愛があふれた良記事であるのでぜひ参照されたい。