会話の含みと慣習的含み
- 文や発話が、それが論理的に含意するわけではないようなことを言語的に含意する仕方がいくつかある。
- 「会話の含み(推意)」によって、その文が字義通りには意味しないことを伝える
- 論理的には同じ意味を持つが異なった含意(「慣習的な含み」)を持つ表現を用いる
- S1がS2を前提するとき、S1を述べることでS2も「含意」される感じがする
- ある種の文が持つ「間接的な力」(叙法が示すものとは異なる発語内の力)を利用する
- この内の最初の2つだけまとめておく。
1 会話の含み
- あることが字義通りに含意されているわけではないの「含意」されるようにみえるケース
- 「伝えられる意味」:Pを意味する文を発話しているが、話し手の中心的な伝達意図が明らかにQを伝えることにある(例:皮肉、あてこすり、遠回しな言い方)
- 「誘導された推論 (invited inference)」:条件文が双条件文を含むものとして理解される、連言が因果関係や時間的順序関係を含むものとして理解される、など。
- グライスの「会話の含み」理論
- 最上位の会話的規範:
協調の原理
会話の中で発言をするときには、この会話の目的や方向性をちゃんと踏まえて、自分の発言がどういう位置を占めているのかちゃんと理解した上で、的を射た発言をするべき
- 協調の原理は、以下のいくつかの会話の格率を要約したもの。これらの格率は、情報の授受を効率化するためのルールであり、協調的な話者は従うことが期待されるもの。
- 量の格率:必要十分な情報を与えるようにしろ
- 質の格率:ちゃんと証拠を持っていることを言うようにしろ
- 関係性の格率:関係あることだけ言うようにしろ
- 様式の格率:完結でわかりやすい言い方をしろ
- 協調の原理に対して話者が取れる態度は4つ。
- 諸格率に従う
- ある格率を破る(violate):聞き手にバレないようにこっそり格率違反を犯す
- ある格率をあからさまに無視する(flout):聞き手が格率違反に気づくように露骨にやる
- 諸格率から身を引く(opt out):ゲームのプレイそのものを拒む(例:会話自体を拒絶する)
- いずれの振る舞いも、聞き手にある推論のライセンスを与える
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- グライスのアイデア:会話の含みの伝達は、上の諸格率に基づいて推論が聞き手の側で行われるとすれば説明できる。
- 話し手が格率に従っていると期待される場合:「彼はpと言った。彼が協調の原理に従っていないと考える理由はない。だが彼が協調の原理に従っていると言えるのは、彼がqと考えている場合に限られる。ところで彼は、彼がqと考えているということを想定すべきだということを私が理解できる、ということを知っているはずだ。彼は私がqと考えるのを思いとどまらせるようなことは何もしていないので、私にqと考える余地を自ら与えている。ということは、彼はqを含みとしたのだ」
- 例:誘導された推論:「彼らは恋に落ちた。そして結婚した」
- 「話し手が協調の原理に従っていないと考える理由はない。したがって、簡潔かつ曖昧さのない言い方をしているはずだ。もし結婚のほうが恋に落ちることよりも先立ったとすると、この言い方は不明瞭な言い方だ。協調の原理に従っているといえるのは、恋に落ちることのほうが結婚よりも時間的に先立つ場合のみだ。それに話し手は、私がこのような順序関係で捉える余地をあえて与えているし、そう想定すべきだということを私が理解できることも知っている。であるからには、恋に落ちるほうが時間的に先立つということを含みとしたのだ」
- 遠回しな言い方:「ドアはあちらです」
- 「一見関係性の格率を無視しているように見えるが、彼が協調の原理に従っていないと考える理由はない。関係性の格率を守っているのなら、ドアの位置が彼の言いたいことと関係があるはずだ。私に出ていってほしいと考えているのなら、彼は協調の原理に従っている。ところで彼は、そのことを私が理解することを期待しているはずだし、そう私が考える余地をわざわざ与えている。ということは、彼は「出ていけ」ということを含みとしたのだ」
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尺度推意(scalar implicature)「殆どの生徒が満点を取った」…全員満点でも真だが、聞き手は「満点を取れなかった人もいるんだな」と思うはず。これは次のような推論による。「もし全員が満点を取ったのなら、「全ての生徒が満点をとった」と述べるほうが情報量が多い。よって話し手が量の格率を守っているのは、全員が満点を取ったのではない場合に限られる。あえてそういう発話をしたということは、全員が満点をとったわけではないということを伝えたいのだろう」
- 格率違反をこっそり犯す場合…実際には格率に従っていないが、従っていると聞き手が期待して上のような推論を経て「q」だと信じてくれることを意図して「p」と言う、みたいなことはある。あえて関係ないことを言って相手に勘違いをさせるとか。直接「q」と言っているわけではないので責任逃れにもなる。
- 例:誘導された推論:「彼らは恋に落ちた。そして結婚した」
- 話し手が格率に従っていると期待される場合:「彼はpと言った。彼が協調の原理に従っていないと考える理由はない。だが彼が協調の原理に従っていると言えるのは、彼がqと考えている場合に限られる。ところで彼は、彼がqと考えているということを想定すべきだということを私が理解できる、ということを知っているはずだ。彼は私がqと考えるのを思いとどまらせるようなことは何もしていないので、私にqと考える余地を自ら与えている。ということは、彼はqを含みとしたのだ」
- グライスのアイデア:会話の含みの伝達は、上の諸格率に基づいて推論が聞き手の側で行われるとすれば説明できる。
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- 話し手が格率を露骨に無視している場合
- 「X嬢が一連の音声を発したが、それは『~』の楽譜と緊密に対応していた」
- 「話し手はあからさまに様式の格率を無視している。あえて「歌っていた」というシンプルな言い方をしないということは、X嬢の歌いぶりには通常「歌う」という語が適用される事態とは著しく違ったことがあったということなのだろう。つまり下手くそだと言いたいのだろう」
- (様式の格率をあえて無視する目的…失礼にならないようにする;責任を逃れる etc.)
- その他の例:皮肉(質の格率に違反)
- 会話の含みの重要な特徴:
- 計算可能:上に述べたような仕方で推論できなきゃダメ。そういう推論がない場合は、含意が何かあるとしてもそれは会話の含みではない。
- 取り消し可能:会話の含みを導出する推論は阻止できる。
- グライスの立場の問題:
- 以上の、会話の含みを導出する推論は2ステップに分かれている。(1) 話し手の意味は発話されたその文の文字通りの意味ではない(否定的推論) (2) 話し手はこれこれを実際には意味している(肯定的推論)
- Davis:2ステップ目(話し手の意味の確定)がどうやって可能なのかについてグライスは何も言ってねぇ!俺たちは皆、問題となる文が何を含みとするのかをすでに知っているから、なんとなく(2)の方をスルーしちゃうけど、含みを前もって知らない聞き手が話し手の意味を推論する手がかりは何なのかをホントは考えなきゃいけないんだ。
- 関連性理論(会話のメカニズムや含みの伝達は全部「関連性」だけで説明できるぜ)の人たち…そもそもグライスは、(1)のステップにおいて「意味論によって文字通りの意味(真理条件的意味)を特定し」、(2)のステップで話し手の意味を特定する、というモデルをとるが、1ステップ目の「文字通りの意味」の特定は、語用論的な情報がないとできなくないですか?
- 表意(explicature):
- ステップ(1)に関する問題を解決するために関係性理論の人たちが持ち出す概念。
- 発話の表意:どんな命題が表現されているのかを決めるために必要な語用論的な情報でもって拡張された意味論的内容
- 曖昧だったり不完全だったり何が指示されているのかパッと見ただけではわからん表現を含んでいたりするような文が発話されたら、我々は語用論的情報を補って、何が言われているのかを特定しようとするはず。そうやって情報を補うことで帰結する意味論的内容が表意。
- 関連性理論によると…
- どうやって情報を補うのか:何が関連しているのかに関する想定から計算できる
- 更に、出てきた表意と関連性の想定をあわせて、含みの計算がされる
- ライカンの言語哲学の教科書によると、表意は取り消し可能であり、取り消されない場合は「言われたこと」として理解されるらしい。「会話の中であまり間を開けずに話し手がその[…]含意を取り消さないのであれば、話し手は[…]ということを(単に含意したと言うだけではなく)言ったものと見なされる」(邦訳 p. 274)。ただし、表意が「言われたこと」になるのかについては賛否両論らしい。また、表意は取り消し可能ではない、という論者もいるらしい。
2 慣習的な含み
- 慣習的な含みは、話し手が言っていることではなく、含みとしていること。言われた文の真理条件とは関わらない。それゆえ含みの一種。
- 会話の含みとの違い:
- 慣習的な含みは、推論に基づかない仕方で瞬間的に理解される〔言われる文脈とかも関係なくその含みは伝達される〕
- 慣習的な含みは取り消し可能ではない
- 例:「クローバーはラブラドールなのに友好的だ」。
- 「なのに」はラブラドールと友好的であることの間にはコントラストがあるという話し手の信念に関する情報を伝える。しかしこれはこの文の真理条件には関係ない。
- andとbutのニュアンスの違い
- 「だから」
- 「~も(too)」
ほとんどの反事実条件文は偽なのか...?Alan Hájek "Most counterfactuals are false"(video)の覚書
https://www.youtube.com/watch?v=fzZ7944AJRk
反事実条件文とは、「もしAだったらCだっただろうに」という形の文だ(形式的には「A□→C」という書き方がされることが多い。)。例えば、このマッチをすれば火がついただろう、とか、桜が一切存在しなかったら春を過ごす人々はのどかな心持ちだっただろう、などである。我々は日常的に結構こういう言い回しをするし、哲学の中でも、哲学的に問題となる色んな概念の分析に登場する。しかし、ほぼ全ての反事実条件文は偽だ、とHájekは言う。
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Argument
・反事実条件文の一つの理解の仕方は、問題となっているある時点において、仮にAが成立していたとすると、そこで成立している条件と物理法則からCが導かれる、ということ(Hájekは、よくある可能世界を用いた分析を好まない...詳しくは省略)。さて、初期条件と物理法則を与えたときに、その後で何が起こるかを予測できない場合がある。それは、初期条件が十分に特定されていないか、あるいは法則が偶然的なものである場合だ。このことが、ほとんどの反事実条件文が偽となるという論証の一つ目と二つ目に繋がる。
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chancy consequents 偶然的結果
・ある出来事が起こりそうもないからといって、それが起こらないということにはならない。例えば一兆個のくじの中にあたりが一つだけあるとする。一つ目のくじが当たりであることはありそうもない。二つ目についてもそうだ。だが、当たりくじがないというわけではない。
・「もし手を離せばコップが落ちるだろう」は一見もっともらしい。しかし、手を離した瞬間にコップが蒸発する確率や、トンネル効果で中国に吹っ飛ぶ確率は0ではない。
・偶然的プロセスが関与する場合、反事実条件文は偽となるはずだ。例えば、滅茶苦茶バイアスのかかったコインがあるとしても、「もしこのコインを投げたら、表が出るだろう」は偽だろう。いわば、偶然は「だろう would」を阻害 undermineする。
Ch(~C|A) > 0 |- ~(A□→C)
・確率的な制限をかけたバージョンなら真だ、ということはHajekは認める。例えば、「もしカップが離されたら、おそらくカップは落ちるだろう」は真でありうる。
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unspecific antecedents 未特定の前件
・仮に世界が決定論的だったとしよう。それでも、ほとんどの反事実条件文は、前件が十分に特定されていないので偽だ。
・例えば、「もし私に子供がいれば、髪の毛は偶数本だっただろう」は明らかに偽だ。奇数の可能性だって十分ある。前件が十分特定されていないと、後件が偽になるような可能性
・「もし手を離せばコップが落ちるだろう」と言った時、コップが離される瞬間の状態は完全に特定されているわけではない。コップのあるマクロな状態は、さまざまなミクロな状態と両立するので、手放した瞬間に蒸発するような状態になっているミクロな状態も排除されない。
・もっとも、そういう物理学的なお話は置いておいても、ほとんどの反事実条件文の前件は、十分に特定されていない。そして、十分に特定されていない反事実条件文は偽だ。いわば、未特定性は「だろう」を阻害する。
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「ではないかもしれない」
偶然的結果と、未特定の前件のいずれも、「〜でないかもしれない」反事実条件文を導く。例えば、「もしコップから手が離されれば、それは落ちなかったかもしれない」のように。ところで、「ではないかもしれない」の反事実条件文と「だろう」の反事実条件文は衝突する。「もしコップから手が離されれば、それは落ちなかったかもしれないが、もしコップから手が離されれば、それは落ちただろう」はキモい。思うに、「ではないかもしれない」と「だろう」は両立しない。すなわち、「ではないかもしれない」は「だろう」を阻害する。
A ♢→ C |- ~(A□→C)
ところで、「ではないかもしれない」反事実条件文はたいてい真だ。それゆえ、「だろう」の反事実条件文は典型的に偽だ。
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反事実条件法に関する懐疑論に対してこれまで出されてきた応答のいくつかに反論しておく。
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それらの応答のほとんどは、Stalnaker/Lewis流の、「類似性」意味論に乗っかっている。それは大雑把には次のような感じだ:
「もしAだったらCだっただろう」が真である iff 全ての最も類似したA世界(最近接A世界)がC世界である。
このような考えは広く受け入れられているが、Hajekは同意しない。その理由については大雑把には次の通り。Hájekの考えるところでは、反事実条件文は仮定的予測である。典型的な反事実条件文は、別の世界を含んでいるのではなく、我々のこの世界のなかの、別の時点を含んでいる。その時点とは、前件の真理値がまだ決まっていなかった時点だ。反事実条件文は、その時点で前件が成立していたと仮定した時にその先でどのようなことが起こるのかに関する予測 なのだ。そして、そのような予測をする時に我々は、世界間の類似性など考えない。我々を導くのは確率だ。
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ところが、Hájekに反対してくる人は軒並み類似性説に乗っている。
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ところで、ここでいう「類似性」とは?
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Hájekへの反論は多々あるが、それらは共通して、反事実条件文が真となるための「ハードルを下げる」という戦略をとっている。しかしその結果、反事実条件法に関して妥当であるはずの推論パターンが破られてしまう。その推論パターンとは次のようなものだ。
先に見た、
- 偶然は「だろう」を阻害する
- 「ではないかもしれない」は「だろう」を阻害する
- モードゥス・ポネンス
- (Agglomeration) A□→C1, A□→C2 |- A□→(C1 & C2)
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Karen Lewis ... 反事実条件法に関する文脈主義的考えをとる
- Hájekはこの考えも好まない。その理由は次の通り。
- 反事実条件文の主張は仮定的な予測だ。そして、何が起こるかが発話者の今置かれている文脈ないし会話の目的に可感的だ、とは誰も考えないだろう。
- そもそも会話の目的が一つある、という考えは無理筋だ。会話の目的などないかもしれないし、二つ以上あるかもしれない。
- Karen Lewisは、mightの反事実条件文は薄い可能性をレレバントにする、と言う。しかしだとすると、あなたが無知だったり想像力がなかったりすれば、あなたの言う反事実条件文がより真になる、ということになりそうだがこれは奇妙。あることが起こる可能性があるかというのはあなたが何を考えるか等とは独立だ。
- Hájekはこの考えも好まない。その理由は次の通り。
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Leitgeb:A□→C が真 iff ch(C|A) がとても高い
- 悪くないだろう。しかし、どのくらいchanceが高ければ良いのか?閾値をどこに設定するのか。
- Leitgebの考えは、"would probably"の説明としては適切。しかしwouldの反事実条件文の真理に関する説明にはなっていない。Leitgebの説を取ると、modus ponesやagglomerationが破られてしまう。"would probably"は実際そういう論理に従っているはずだ。しかしwouldの反事実条件文はそうではない。
- 加えて、wouldとmight notの非両立性をLeitgebだと説明できない。
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Hájek自身の考え:閾値は1未満ではありえない。つまり
A□→C が真 iff ch(C|A) = 1
ただし"ch":Aの真理値が決まる直前の時点におけるchance関数
- ほとんどの反事実条件文はこのハードルを越えられない。それゆえほとんどの反事実条件文は偽
また、mightについては、
A♢→C が真 iff ch(C|A) > 0
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ところで、主張可能性の条件はもう少し緩く考えられている。
反事実条件文が主張可能である iff 対応する条件的chanceが高い
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Karen Lewisは「反事実条件的懐疑論の脅威」とか「反事実条件的懐疑論がその醜い頭を上げる」みたいな言い方をするが、Hájekに言わせれば「カワイイ頭」だ。反事実条件的懐疑論はそんなに怖くないぞ。
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反事実条件法はほぼ偽だ、というのは反直観的に思えるかもしれない。しかし...
- 熟達した話者は、自分たちが使う言葉の意味については権威を持っているかもしれない。自分たちが発話する文の真理条件についても、権威を持っているかもしれない。しかし、だからといって、その真理値についてまで権威を持っているということにはならない!真かどうかは、部分的には、世界がどのようであるかという問題だ。我々は世界のあり方に関して無知でありうる。
- 常識が間違っているということは別に驚くことでもなんでもない。大抵の人は量子論的効果なんて知りもしないのだから、トンネル効果が起こる可能性なんて考えもしない。科学は常識をしばしば訂正するし、哲学だってそうだ。特に、様相に関する我々の判断なんてヒドいものだ。連言錯誤やらギャンブラーの錯誤やら考えてみよ。なんで反事実条件法に関する常識的判断は正しい、なんて言えるんや。
- 反事実条件的懐疑論で困るのは哲学者だけだ。
- 偽なことを言うことにポイントがあるケースは多々ある。反事実条件法に関しても、日常的に言われる偽な反事実条件文は、真な文よりもむしろ主張可能なのだ。「もしこのカップが手放されれば、おそらく落ちるだろう」と(正確に)言うことは、まさにこのカップの手放しが何か特殊な出来事で、普通に落ちる見込みが実は低いということを話し手が知っているというミスリーディングな情報を伝えてしまう。それよか、「もしこのカップが手放されれば落ちるだろう」と偽なことを言った方が良い。ほとんどの反事実条件文は偽だが、それでええやん。
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反事実条件文の文脈主義に関する覚書
先日のアンケートの結果(https://twitter.com/MasahiraSho/status/1424703708399505414;https://twitter.com/MasahiraSho/status/1424704491299872771)おおよそ予想どおりだった。やっぱ(A)の方が気持ち悪いよなぁ… とはいえ、(B)にも気持ち悪さを感じる人がそこそこいることや、(A) への違和感がそこまで強いものではなさそうだというのは個人的に面白かった。テキトーなアンケートだったが、もっとちゃんとデータをとってみたいところではある。
ちなみにここでの例は、Jonathan Jenkins Ichikawa (2017) *Contextualising Knowledge*という本からとってきた。問題は、①「もしガマが今夜殺されるならば、アラクは明日、王位につくだろう」と ②「もしガマが今夜殺され、アランも今夜殺されるならば、アラクは王位につかないだろう」はいずれも真っぽいし問題なさそうなのにもかかわらず、単にその連言を取っただけの(A)は受け入れ難いということだ。どう考えたら良いのか。
選択肢1は、①は実は偽だ、と見なすことだ。そうすると、(A)も偽ということになる。①も(A)の気持ち悪さは、(A)が偽だということからきているのかもしれない。
しかし、この選択肢には難しさがある。なぜ①は自然に受け入れられるのに(A)は受け入れ難いのかをさらに説明する必要があるだろう。そして次に、①が偽だとしてしまうと、ほとんどの日常的な反事実条件文が偽になってしまわないか、という懸念がある。
選択肢2は、②が偽だとすること。しかし、アランが殺されたのちに王位につくというのはありえないだろう。この選択肢は無理筋っぽい。
選択肢3は、(A)を受け入れてしまうこと。しかしIchikawaは、「非常に直観的コストがかかる 」として退ける。
上のアンケートをとったのは、(A)が本当に受け入れ難いのか気になったから。実はある人とこの例について話したとき、その人は(A)にさほど違和感を感じないと言っていた。僕は結構強く違和感を持ったのだが、もしかして直観がバラけるのか?と気になった。結果は、割と多くの人が多少は違和感を感じるというものだった。とはいえ、(A)を受け入れることの直観的コストは言うほど高くないのかも。
もう一つ面白いのが、(A)と左右を入れ替えただけの(B)は、(A)に比べれば自然に読めてしまうということ。(B)の方が(A)よりもキモくない、というのは説明が必要そう。
Ichikawaは、反事実条件文に関する文脈主義を取る。反事実条件文「もしAだったならBだっただろう」が真かどうかは、標準的には、Aが成り立っているという点を除くと現実世界ともっともよく似ているような可能的状況(可能世界)の集合を考えてやり、そのような可能世界の全てにおいてBが成り立つかどうかで決まる(ざっくり)。反事実条件文の文脈主義は、その際考慮にいれるべき可能世界の範囲が発話者の文脈に依存する、というアイデアだ。
この考えを取ると、①と②はそれぞれ異なった文脈で真だが、(A)はどんな文脈でも偽だ、ということになるはず。仮に(A)を主張すると、その文脈で関連する可能世界の中で、アランが今夜殺される最近接可能世界たちの全てにおいてアラクは明日王位につくが、その可能世界たちの中でアランも今夜殺される世界においてはアラクは王位につかない、と言われていることになる。
割といけそうだなと個人的には思う。あと、この考えをとれば、(B)が比較的自然な理由も説明できそう。(B)の前半部分では、アラクが今夜死ぬ可能性は考慮に入っていなかったが、途中で文脈がシフトし、アラクが死ぬ可能性が考慮に入ることで、後半部分が主張されている、という感じで考えれば良さそう。ではなぜ(A)だと途中で文脈がシフトするように見えないのか。差し当たり、一旦念頭に置いてしまった可能性は、そう易々と無視できないので、考慮する可能性を減らす方向へのシフトは難しいのだ、と考えておけば良いかなと思う。
ちなみに、(B)でも気持ち悪さを感じた人が多少いたようだ。そのキモさは、一息で言ってしまっていることに由来しているのではないか?例えば次のようにしたらどうだろう?「もしガマが今夜殺されるならば、明日アラクは王位につくだろう…あ、ちょっと待って。もしガマが今夜殺され、アラクも今夜殺されるならば、明日アラクは王位につかないだろう」。間にワンクッション挟むことで、文脈がシフトする感じが出て、より違和感が減るのではなかろうか?
確率主義とダッチブック論証(D. Bradley (2015) *A Critical Introduction to Formal Epistemology* Ch. 3前半部分のまとめ)
伝統的な認識論だと、(端的に)信じている・信じていない・判断保留 という三つの状態が問題となり、あることを信じている時にそれが正当である条件は何か、などが問題になったりする。一方、形式認識論では端的な信念ではなく確信の度合い(信度)が問題になる。例えば、Aが犯人であることを強く示唆する証拠があるときには、Aを確実に白だと置くのは不合理であり、むしろAを黒置きすべきだ。また、証拠の強さに応じて、黒置きする度合いも変えるべきだろう。我々は端的に信じる/信じないというケースだけでなく、もう少し肌理細かい確信の度合いを持つことができる。信度は[0, 1]区間の実数値で表現するのが慣例となっている。
認識論の一つの課題は、どのような信念を持つことが合理的かを明確にすることだ。それは形式認識論でも同じ。形式認識論の場合、どのような信度を持つことが合理的かが問題になる。信度が合理的であるための制約を明らかにして行くことが課題だ。そのような制約としてはいくつかのものが提案されているが、そのうちの一つで一番有名なのが、「確率主義」だろう。確率主義は、<信度は確率的であるべきだ>という制約だ。例えば、わかりやすいトートロジーには1を振るべきだろうし、Pに0.7を振るならPの否定には0.3を振るのが合理的、という感じがする。
もっとも、確率主義に素直に従うと、全ての論理的真理には信度1を振るべきということになるが、超複雑なトートロジーとか証明されていない数学的真理とかに1を振ることは我々には難しい。なので確率主義は、最強の合理的主体にのみ当てはまる制約だ。とはいえ、確率主義はシンプルだしそれなりにもっともらしいので、いわば近似としてとりあえず受け入れて、追々近似の精度を高めていけば良い。
確率主義を擁護する論証としてもっとも有名なのが「ダッチブック論証」と言われるものだ。ダッチブックとは、どんな結果が出ても賭け手が損をするような賭けのことを言う。なんで「ダッチブック」と呼ばれるのかは知らん。ダッチブック論証は、確率主義を破ると確実に損をする賭けが作れてしまう、と論じるものだ。
まず、「賭け値(betting price)」という概念を導入しておく。例えば次のようなケースを考えよう。ノミ屋が次のように言ってきた。「明日世界的にUFOの調査が行われる(これは事実だとしよう)。UFOが見つかるかどうかで賭けをしよう。もしUFOが見つかったら1万円出そう。しかし見つからなかったら一銭も渡さない」。さて、あなたはこの賭けに何円までなら出す?
もしあなたがUFOは存在しないと確信しているなら、賭けに乗らないだろう。つまり、あなたが出す金は0円だ。一方で、もしあなたがUFOは絶対に存在すると確信しているなら、1万円までなら出すだろう。では、もしあなたの信度が0.8だったら?8000円までなら出すのではないだろうか?この8000円が賭け値だ。一般化すると次の通り:賭け値は、もし仮説Hが真ならば1万円(偽なら0円)貰えるチケットに主体が払うことを厭わない金額の最大値である。
また、賭け値は、もしHが真ならば1万円(偽なら0円)貰えるチケットを主体が売ることを厭わない金額の最小値でもある。もしあなたの信度が0.8なら、8000円未満では売らないだろう。
次に、ダッチブック定理を紹介する必要がある。
ダッチブック定理:もし一連の賭け値が確率の規則を破っているなら、それらの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在する。
例:負の賭け値を持っている場合...買う場合だとよくわからんが売る場合を考えるとわかりやすいかも。例えば賭け値が-2000円とすると、要はチケットを売る際に、相手に2000円渡してチケットを持っていってもらうということになる。Hが偽でも真でもその2000円は返ってこないし、真なら追加で一万円払うことになる。
トートロジーに一万をかけない場合...賭け値が一万円を超える場合は、勝てば一万円のチケットを、例えば二万円で買うなんてことになる。また、Hがトートロジーの場合、Hに一万未満(例えば8000円)をかけるとすると、not-Hに対しては2000円までなら出すということになってしまう。not-Hは確実に偽なのであなたは確実に損をする。
加法性を破る場合...両立しない命題XとYについて、Xに4000円、Yに4000円、X or Yに6000円の賭け値を与えるとすると、次のような賭けを構成できる。
賭け1:Xが真の場合その場合に限り一万円支払われるチケットをノミ屋から買う
賭け2:Yが真の場合その場合に限り一万円支払われるチケットをノミ屋から買う
賭け3:XまたはYが真の場合その場合に限り一万円支払うチケットをノミ屋に売る
これら三つの賭けに、それぞれの賭け値でもってあなたが賭けに乗るとする。すると、賭け1に4000円、賭け2に4000円支払い、賭け3で6000円受け取ることになる。差額の2000円分が財布の外に出たはずだ。そしてこの2000円は残念ながら返ってこない。というのも...
- Xが真の場合:賭け1で勝つので1万円貰えるが賭け3で負けるので1万円ロスする
- Yが真の場合:賭け2で勝つので1万円貰えるが賭け3で負けるので1万円ロスする
- いずれも偽の場合:どの賭けにおいても金の授受が起こらない。
以上で準備が整った。ダッチブック論証は次の通り。
前提1. あなたの信度はあなたの賭け値と一致すべきだ。
ダッチブック定理:もし一連の賭け値が確率の規則を破っているなら、それらの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在する。
前提2. もしあなたの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在するならば、あなたを確実に損させることができる。
前提3. もしあなたを確実に損させることができるならば、あなたは非合理的だ。
結論. ゆえに、もしあなたの信度が確率の諸規則を破っているならば、あなたは非合理的だ。
以上だ。
ダッチブック論証のそれぞれの前提にはツッコミどころがある。一つずつ簡単に確認しておこう。
前提1について:例えば、一万円あれば飛行機に乗れるが手元に6000円しかないとしよう。その時あなたが誰かに、偏りのないコインを投げて表が出れば一万円、裏が出れば0円払う賭けに6000円で乗らないかと提案されたとする。あなたがこの賭けに乗るのは合理的かもしれない。主体がどのような賭けに乗るかは、信度とその結果得られる効用の両方に依存するように思われる。そして、効用は賭けの金額と必ずしも比例しない。上のケースだと、9999円より1万円得る方がはるかに効用が高いのだ。それゆえあなたは、自分の信度と一致しない値段で喜んで賭けに乗るかもしれない。ゆえにP1は偽だ。
前提2について:ダッチブックが存在しても、賭けなきゃ良いじゃ〜ん!という元も子もない応答が可能だ。賭けなければ損もしないのだから。
前提3について:確実に損をさせることができるような状態にあることがむしろ得になるケースがあるんじゃね?例えば...ぶっ飛んだ大金持ちが、確率の初期速を破るような信度を持ったやつに1億やろう、と言い出したとする。すると、非確率的な信度を持つ奴が一億円ゲットできることになる。こういうケースを考えると、非確率的な信度を持つ奴が非合理とは言い切れないのでは?
以上のツッコミは全部根っこが共通している。要は、ダッチブック論証はプラグマティックな論証だという所から生じているのだ。ダッチブック論証は、金銭的に損をしてしまう主体の話をしているが、元々問題にしたかったのは、どういう信度を持つことが認識的に合理的かということだった。金銭的に損をするというのは、信念の認識的合理性と間接的にしか関係しない。
ダッチブック論証を改造してプラグマティックな要素を取り除く、という戦略が考えられるが、現状この戦略はあまりうまく行っていないようだ。そこで、確率主義を擁護するための別の戦略として、Jim JoyceやRichard Pettigrewらがaccuracy argumentという別種の議論を行なっている。PettigrewのAccuracy and the Laws of Credenceは途中まで目を通したが、かなり骨の折れる本だった。個人的には、結構いけそうな路線だとは思うが、検討するのはめんどくさいなと思った。まあいつか機会があったらaccuracy argumentについても簡単にまとめてみたい。