確率主義とダッチブック論証(D. Bradley (2015) *A Critical Introduction to Formal Epistemology* Ch. 3前半部分のまとめ)

伝統的な認識論だと、(端的に)信じている・信じていない・判断保留 という三つの状態が問題となり、あることを信じている時にそれが正当である条件は何か、などが問題になったりする。一方、形式認識論では端的な信念ではなく確信の度合い(信度)が問題になる。例えば、Aが犯人であることを強く示唆する証拠があるときには、Aを確実に白だと置くのは不合理であり、むしろAを黒置きすべきだ。また、証拠の強さに応じて、黒置きする度合いも変えるべきだろう。我々は端的に信じる/信じないというケースだけでなく、もう少し肌理細かい確信の度合いを持つことができる。信度は[0, 1]区間の実数値で表現するのが慣例となっている。

認識論の一つの課題は、どのような信念を持つことが合理的かを明確にすることだ。それは形式認識論でも同じ。形式認識論の場合、どのような信度を持つことが合理的かが問題になる。信度が合理的であるための制約を明らかにして行くことが課題だ。そのような制約としてはいくつかのものが提案されているが、そのうちの一つで一番有名なのが、「確率主義」だろう。確率主義は、<信度は確率的であるべきだ>という制約だ。例えば、わかりやすいトートロジーには1を振るべきだろうし、Pに0.7を振るならPの否定には0.3を振るのが合理的、という感じがする。

もっとも、確率主義に素直に従うと、全ての論理的真理には信度1を振るべきということになるが、超複雑なトートロジーとか証明されていない数学的真理とかに1を振ることは我々には難しい。なので確率主義は、最強の合理的主体にのみ当てはまる制約だ。とはいえ、確率主義はシンプルだしそれなりにもっともらしいので、いわば近似としてとりあえず受け入れて、追々近似の精度を高めていけば良い。

確率主義を擁護する論証としてもっとも有名なのが「ダッチブック論証」と言われるものだ。ダッチブックとは、どんな結果が出ても賭け手が損をするような賭けのことを言う。なんで「ダッチブック」と呼ばれるのかは知らん。ダッチブック論証は、確率主義を破ると確実に損をする賭けが作れてしまう、と論じるものだ。

まず、「賭け値(betting price)」という概念を導入しておく。例えば次のようなケースを考えよう。ノミ屋が次のように言ってきた。「明日世界的にUFOの調査が行われる(これは事実だとしよう)。UFOが見つかるかどうかで賭けをしよう。もしUFOが見つかったら1万円出そう。しかし見つからなかったら一銭も渡さない」。さて、あなたはこの賭けに何円までなら出す?

もしあなたがUFOは存在しないと確信しているなら、賭けに乗らないだろう。つまり、あなたが出す金は0円だ。一方で、もしあなたがUFOは絶対に存在すると確信しているなら、1万円までなら出すだろう。では、もしあなたの信度が0.8だったら?8000円までなら出すのではないだろうか?この8000円が賭け値だ。一般化すると次の通り:賭け値は、もし仮説Hが真ならば1万円(偽なら0円)貰えるチケットに主体が払うことを厭わない金額の最大値である。

また、賭け値は、もしHが真ならば1万円(偽なら0円)貰えるチケットを主体が売ることを厭わない金額の最小値でもある。もしあなたの信度が0.8なら、8000円未満では売らないだろう。

次に、ダッチブック定理を紹介する必要がある。

ダッチブック定理:もし一連の賭け値が確率の規則を破っているなら、それらの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在する。

例:負の賭け値を持っている場合...買う場合だとよくわからんが売る場合を考えるとわかりやすいかも。例えば賭け値が-2000円とすると、要はチケットを売る際に、相手に2000円渡してチケットを持っていってもらうということになる。Hが偽でも真でもその2000円は返ってこないし、真なら追加で一万円払うことになる。

トートロジーに一万をかけない場合...賭け値が一万円を超える場合は、勝てば一万円のチケットを、例えば二万円で買うなんてことになる。また、Hがトートロジーの場合、Hに一万未満(例えば8000円)をかけるとすると、not-Hに対しては2000円までなら出すということになってしまう。not-Hは確実に偽なのであなたは確実に損をする。

加法性を破る場合...両立しない命題XとYについて、Xに4000円、Yに4000円、X or Yに6000円の賭け値を与えるとすると、次のような賭けを構成できる。

賭け1:Xが真の場合その場合に限り一万円支払われるチケットをノミ屋から買う

賭け2:Yが真の場合その場合に限り一万円支払われるチケットをノミ屋から買う

賭け3:XまたはYが真の場合その場合に限り一万円支払うチケットをノミ屋に売る

これら三つの賭けに、それぞれの賭け値でもってあなたが賭けに乗るとする。すると、賭け1に4000円、賭け2に4000円支払い、賭け3で6000円受け取ることになる。差額の2000円分が財布の外に出たはずだ。そしてこの2000円は残念ながら返ってこない。というのも...

  • Xが真の場合:賭け1で勝つので1万円貰えるが賭け3で負けるので1万円ロスする
  • Yが真の場合:賭け2で勝つので1万円貰えるが賭け3で負けるので1万円ロスする
  • いずれも偽の場合:どの賭けにおいても金の授受が起こらない。

以上で準備が整った。ダッチブック論証は次の通り。

前提1. あなたの信度はあなたの賭け値と一致すべきだ。

ダッチブック定理:もし一連の賭け値が確率の規則を破っているなら、それらの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在する。

前提2. もしあなたの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在するならば、あなたを確実に損させることができる。

前提3. もしあなたを確実に損させることができるならば、あなたは非合理的だ。

結論. ゆえに、もしあなたの信度が確率の諸規則を破っているならば、あなたは非合理的だ。

以上だ。

ダッチブック論証のそれぞれの前提にはツッコミどころがある。一つずつ簡単に確認しておこう。

前提1について:例えば、一万円あれば飛行機に乗れるが手元に6000円しかないとしよう。その時あなたが誰かに、偏りのないコインを投げて表が出れば一万円、裏が出れば0円払う賭けに6000円で乗らないかと提案されたとする。あなたがこの賭けに乗るのは合理的かもしれない。主体がどのような賭けに乗るかは、信度とその結果得られる効用の両方に依存するように思われる。そして、効用は賭けの金額と必ずしも比例しない。上のケースだと、9999円より1万円得る方がはるかに効用が高いのだ。それゆえあなたは、自分の信度と一致しない値段で喜んで賭けに乗るかもしれない。ゆえにP1は偽だ。

前提2について:ダッチブックが存在しても、賭けなきゃ良いじゃ〜ん!という元も子もない応答が可能だ。賭けなければ損もしないのだから。

前提3について:確実に損をさせることができるような状態にあることがむしろ得になるケースがあるんじゃね?例えば...ぶっ飛んだ大金持ちが、確率の初期速を破るような信度を持ったやつに1億やろう、と言い出したとする。すると、非確率的な信度を持つ奴が一億円ゲットできることになる。こういうケースを考えると、非確率的な信度を持つ奴が非合理とは言い切れないのでは?

以上のツッコミは全部根っこが共通している。要は、ダッチブック論証はプラグマティックな論証だという所から生じているのだ。ダッチブック論証は、金銭的に損をしてしまう主体の話をしているが、元々問題にしたかったのは、どういう信度を持つことが認識的に合理的かということだった。金銭的に損をするというのは、信念の認識的合理性と間接的にしか関係しない。

ダッチブック論証を改造してプラグマティックな要素を取り除く、という戦略が考えられるが、現状この戦略はあまりうまく行っていないようだ。そこで、確率主義を擁護するための別の戦略として、Jim JoyceやRichard Pettigrewらがaccuracy argumentという別種の議論を行なっている。PettigrewのAccuracy and the Laws of Credenceは途中まで目を通したが、かなり骨の折れる本だった。個人的には、結構いけそうな路線だとは思うが、検討するのはめんどくさいなと思った。まあいつか機会があったらaccuracy argumentについても簡単にまとめてみたい。