ほとんどの反事実条件文は偽なのか...?Alan Hájek "Most counterfactuals are false"(video)の覚書

 https://www.youtube.com/watch?v=fzZ7944AJRk

反事実条件文とは、「もしAだったらCだっただろうに」という形の文だ(形式的には「A□→C」という書き方がされることが多い。)。例えば、このマッチをすれば火がついただろう、とか、桜が一切存在しなかったら春を過ごす人々はのどかな心持ちだっただろう、などである。我々は日常的に結構こういう言い回しをするし、哲学の中でも、哲学的に問題となる色んな概念の分析に登場する。しかし、ほぼ全ての反事実条件文は偽だ、とHájekは言う。

  • Argument

    ・反事実条件文の一つの理解の仕方は、問題となっているある時点において、仮にAが成立していたとすると、そこで成立している条件と物理法則からCが導かれる、ということ(Hájekは、よくある可能世界を用いた分析を好まない...詳しくは省略)。さて、初期条件と物理法則を与えたときに、その後で何が起こるかを予測できない場合がある。それは、初期条件が十分に特定されていないか、あるいは法則が偶然的なものである場合だ。このことが、ほとんどの反事実条件文が偽となるという論証の一つ目と二つ目に繋がる。

    1. chancy consequents 偶然的結果

      ・ある出来事が起こりそうもないからといって、それが起こらないということにはならない。例えば一兆個のくじの中にあたりが一つだけあるとする。一つ目のくじが当たりであることはありそうもない。二つ目についてもそうだ。だが、当たりくじがないというわけではない。

      ・「もし手を離せばコップが落ちるだろう」は一見もっともらしい。しかし、手を離した瞬間にコップが蒸発する確率や、トンネル効果で中国に吹っ飛ぶ確率は0ではない。

      ・偶然的プロセスが関与する場合、反事実条件文は偽となるはずだ。例えば、滅茶苦茶バイアスのかかったコインがあるとしても、「もしこのコインを投げたら、表が出るだろう」は偽だろう。いわば、偶然は「だろう would」を阻害 undermineする。

      Ch(~C|A) > 0 |- ~(A□→C)

      ・確率的な制限をかけたバージョンなら真だ、ということはHajekは認める。例えば、「もしカップが離されたら、おそらくカップは落ちるだろう」は真でありうる。

    2. unspecific antecedents 未特定の前件

      ・仮に世界が決定論的だったとしよう。それでも、ほとんどの反事実条件文は、前件が十分に特定されていないので偽だ。

      ・例えば、「もし私に子供がいれば、髪の毛は偶数本だっただろう」は明らかに偽だ。奇数の可能性だって十分ある。前件が十分特定されていないと、後件が偽になるような可能性

      ・「もし手を離せばコップが落ちるだろう」と言った時、コップが離される瞬間の状態は完全に特定されているわけではない。コップのあるマクロな状態は、さまざまなミクロな状態と両立するので、手放した瞬間に蒸発するような状態になっているミクロな状態も排除されない。

      ・もっとも、そういう物理学的なお話は置いておいても、ほとんどの反事実条件文の前件は、十分に特定されていない。そして、十分に特定されていない反事実条件文は偽だ。いわば、未特定性は「だろう」を阻害する。

    3. 「ではないかもしれない」

      偶然的結果と、未特定の前件のいずれも、「〜でないかもしれない」反事実条件文を導く。例えば、「もしコップから手が離されれば、それは落ちなかったかもしれない」のように。ところで、「ではないかもしれない」の反事実条件文と「だろう」の反事実条件文は衝突する。「もしコップから手が離されれば、それは落ちなかったかもしれないが、もしコップから手が離されれば、それは落ちただろう」はキモい。思うに、「ではないかもしれない」と「だろう」は両立しない。すなわち、「ではないかもしれない」は「だろう」を阻害する。

      A ♢→ C |- ~(A□→C)

      ところで、「ではないかもしれない」反事実条件文はたいてい真だ。それゆえ、「だろう」の反事実条件文は典型的に偽だ。

  • 反事実条件法に関する懐疑論に対してこれまで出されてきた応答のいくつかに反論しておく。

    • それらの応答のほとんどは、Stalnaker/Lewis流の、「類似性」意味論に乗っかっている。それは大雑把には次のような感じだ:

      「もしAだったらCだっただろう」が真である iff 全ての最も類似したA世界(最近接A世界)がC世界である。

      このような考えは広く受け入れられているが、Hajekは同意しない。その理由については大雑把には次の通り。Hájekの考えるところでは、反事実条件文は仮定的予測である。典型的な反事実条件文は、別の世界を含んでいるのではなく、我々のこの世界のなかの、別の時点を含んでいる。その時点とは、前件の真理値がまだ決まっていなかった時点だ。反事実条件文は、その時点で前件が成立していたと仮定した時にその先でどのようなことが起こるのかに関する予測 なのだ。そして、そのような予測をする時に我々は、世界間の類似性など考えない。我々を導くのは確率だ。

    • ところが、Hájekに反対してくる人は軒並み類似性説に乗っている。

    • ところで、ここでいう「類似性」とは?

      • これは、全然常識的な関係ではない。可能世界の類似性のヤバさはKit Fineが指摘した通りだ。ルイスはこれに対して、類似性関係に関する複雑なorderingを与えたが...
        • 反例がある。昨日指を引っ掻いていなかったとして、「もし昨日指を引っ掻いていたならば、真夜中に引っ掻いていただろう」が真になっちゃう。というのも、昨日の23:59に指を引っ掻いた世界が、ルイスの基準だと一番現実に近い世界だから。しかし、なんで真夜中やねん、と言いたくなる。
        • 類似性関係はなんでも出してくれるハリー・ポッターの杖みたいなもんだ。〔便利だ。しかしファンタジーだ、という感じか?〕
    • Hájekへの反論は多々あるが、それらは共通して、反事実条件文が真となるための「ハードルを下げる」という戦略をとっている。しかしその結果、反事実条件法に関して妥当であるはずの推論パターンが破られてしまう。その推論パターンとは次のようなものだ。

      先に見た、

      • 偶然は「だろう」を阻害する
      • 「ではないかもしれない」は「だろう」を阻害する
      • モードゥス・ポネンス
      • (Agglomeration) A□→C1, A□→C2 |- A□→(C1 & C2)
    • Karen Lewis ... 反事実条件法に関する文脈主義的考えをとる

      • Hájekはこの考えも好まない。その理由は次の通り。
        • 反事実条件文の主張は仮定的な予測だ。そして、何が起こるかが発話者の今置かれている文脈ないし会話の目的に可感的だ、とは誰も考えないだろう。
        • そもそも会話の目的が一つある、という考えは無理筋だ。会話の目的などないかもしれないし、二つ以上あるかもしれない。
        • Karen Lewisは、mightの反事実条件文は薄い可能性をレレバントにする、と言う。しかしだとすると、あなたが無知だったり想像力がなかったりすれば、あなたの言う反事実条件文がより真になる、ということになりそうだがこれは奇妙。あることが起こる可能性があるかというのはあなたが何を考えるか等とは独立だ。
    • Leitgeb:A□→C が真 iff ch(C|A) がとても高い

      • 悪くないだろう。しかし、どのくらいchanceが高ければ良いのか?閾値をどこに設定するのか。
      • Leitgebの考えは、"would probably"の説明としては適切。しかしwouldの反事実条件文の真理に関する説明にはなっていない。Leitgebの説を取ると、modus ponesやagglomerationが破られてしまう。"would probably"は実際そういう論理に従っているはずだ。しかしwouldの反事実条件文はそうではない。
      • 加えて、wouldとmight notの非両立性をLeitgebだと説明できない。
    • Hájek自身の考え:閾値は1未満ではありえない。つまり

      A□→C が真 iff ch(C|A) = 1

      ただし"ch":Aの真理値が決まる直前の時点におけるchance関数

      • ほとんどの反事実条件文はこのハードルを越えられない。それゆえほとんどの反事実条件文は偽

      また、mightについては、

      A♢→C が真 iff ch(C|A) > 0

      • ところで、主張可能性の条件はもう少し緩く考えられている。

        反事実条件文が主張可能である iff 対応する条件的chanceが高い

      • Karen Lewisは「反事実条件的懐疑論脅威」とか「反事実条件的懐疑論がその醜い頭を上げる」みたいな言い方をするが、Hájekに言わせれば「カワイイ頭」だ。反事実条件的懐疑論はそんなに怖くないぞ。

      • 反事実条件法はほぼ偽だ、というのは反直観的に思えるかもしれない。しかし...

        • 熟達した話者は、自分たちが使う言葉の意味については権威を持っているかもしれない。自分たちが発話する文の真理条件についても、権威を持っているかもしれない。しかし、だからといって、その真理値についてまで権威を持っているということにはならない!真かどうかは、部分的には、世界がどのようであるかという問題だ。我々は世界のあり方に関して無知でありうる。
        • 常識が間違っているということは別に驚くことでもなんでもない。大抵の人は量子論的効果なんて知りもしないのだから、トンネル効果が起こる可能性なんて考えもしない。科学は常識をしばしば訂正するし、哲学だってそうだ。特に、様相に関する我々の判断なんてヒドいものだ。連言錯誤やらギャンブラーの錯誤やら考えてみよ。なんで反事実条件法に関する常識的判断は正しい、なんて言えるんや。
        • 反事実条件的懐疑論で困るのは哲学者だけだ。
        • 偽なことを言うことにポイントがあるケースは多々ある。反事実条件法に関しても、日常的に言われる偽な反事実条件文は、真な文よりもむしろ主張可能なのだ。「もしこのカップが手放されれば、おそらく落ちるだろう」と(正確に)言うことは、まさにこのカップの手放しが何か特殊な出来事で、普通に落ちる見込みが実は低いということを話し手が知っているというミスリーディングな情報を伝えてしまう。それよか、「もしこのカップが手放されれば落ちるだろう」と偽なことを言った方が良い。ほとんどの反事実条件文は偽だが、それでええやん。