会話の含みと慣習的含み

 

  • 文や発話が、それが論理的に含意するわけではないようなことを言語的に含意する仕方がいくつかある。 
    • 「会話の含み(推意)」によって、その文が字義通りには意味しないことを伝える
    • 論理的には同じ意味を持つが異なった含意(「慣習的な含み」)を持つ表現を用いる
    • S1がS2を前提するとき、S1を述べることでS2も「含意」される感じがする
    • ある種の文が持つ「間接的な力」(叙法が示すものとは異なる発語内の力)を利用する
  • この内の最初の2つだけまとめておく。 

 

 

1 会話の含み

 

  • あることが字義通りに含意されているわけではないの「含意」されるようにみえるケース
    • 「伝えられる意味」:Pを意味する文を発話しているが、話し手の中心的な伝達意図が明らかにQを伝えることにある(例:皮肉、あてこすり、遠回しな言い方)
    • 「誘導された推論 (invited inference)」:条件文が双条件文を含むものとして理解される、連言が因果関係や時間的順序関係を含むものとして理解される、など。

 

  • グライスの「会話の含み」理論
    • 最上位の会話的規範:

協調の原理

会話の中で発言をするときには、この会話の目的や方向性をちゃんと踏まえて、自分の発言がどういう位置を占めているのかちゃんと理解した上で、的を射た発言をするべき

 

      • 協調の原理は、以下のいくつかの会話の格率を要約したもの。これらの格率は、情報の授受を効率化するためのルールであり、協調的な話者は従うことが期待されるもの。
        • 量の格率:必要十分な情報を与えるようにしろ
        • 質の格率:ちゃんと証拠を持っていることを言うようにしろ
        • 関係性の格率:関係あることだけ言うようにしろ
        • 様式の格率:完結でわかりやすい言い方をしろ

 

    • 協調の原理に対して話者が取れる態度は4つ。
        • 諸格率に従う
        • ある格率を破る(violate):聞き手にバレないようにこっそり格率違反を犯す
        • ある格率をあからさまに無視する(flout):聞き手が格率違反に気づくように露骨にやる
        • 諸格率から身を引く(opt out):ゲームのプレイそのものを拒む(例:会話自体を拒絶する)
      • いずれの振る舞いも、聞き手にある推論のライセンスを与える

 

      • グライスのアイデア:会話の含みの伝達は、上の諸格率に基づいて推論が聞き手の側で行われるとすれば説明できる。
        • 話し手が格率に従っていると期待される場合:「彼はpと言った。彼が協調の原理に従っていないと考える理由はない。だが彼が協調の原理に従っていると言えるのは、彼がqと考えている場合に限られる。ところで彼は、彼がqと考えているということを想定すべきだということを私が理解できる、ということを知っているはずだ。彼は私がqと考えるのを思いとどまらせるようなことは何もしていないので、私にqと考える余地を自ら与えている。ということは、彼はqを含みとしたのだ」
          • 例:誘導された推論:「彼らは恋に落ちた。そして結婚した」
            • 「話し手が協調の原理に従っていないと考える理由はない。したがって、簡潔かつ曖昧さのない言い方をしているはずだ。もし結婚のほうが恋に落ちることよりも先立ったとすると、この言い方は不明瞭な言い方だ。協調の原理に従っているといえるのは、恋に落ちることのほうが結婚よりも時間的に先立つ場合のみだ。それに話し手は、私がこのような順序関係で捉える余地をあえて与えているし、そう想定すべきだということを私が理解できることも知っている。であるからには、恋に落ちるほうが時間的に先立つということを含みとしたのだ」
          • 遠回しな言い方:「ドアはあちらです」
            • 「一見関係性の格率を無視しているように見えるが、彼が協調の原理に従っていないと考える理由はない。関係性の格率を守っているのなら、ドアの位置が彼の言いたいことと関係があるはずだ。私に出ていってほしいと考えているのなら、彼は協調の原理に従っている。ところで彼は、そのことを私が理解することを期待しているはずだし、そう私が考える余地をわざわざ与えている。ということは、彼は「出ていけ」ということを含みとしたのだ」
          • 尺度推意(scalar implicature)「殆どの生徒が満点を取った」…全員満点でも真だが、聞き手は「満点を取れなかった人もいるんだな」と思うはず。これは次のような推論による。「もし全員が満点を取ったのなら、「全ての生徒が満点をとった」と述べるほうが情報量が多い。よって話し手が量の格率を守っているのは、全員が満点を取ったのではない場合に限られる。あえてそういう発話をしたということは、全員が満点をとったわけではないということを伝えたいのだろう」

          • 格率違反をこっそり犯す場合…実際には格率に従っていないが、従っていると聞き手が期待して上のような推論を経て「q」だと信じてくれることを意図して「p」と言う、みたいなことはある。あえて関係ないことを言って相手に勘違いをさせるとか。直接「q」と言っているわけではないので責任逃れにもなる。

 

        • 話し手が格率を露骨に無視している場合
          • 「X嬢が一連の音声を発したが、それは『~』の楽譜と緊密に対応していた」
            • 「話し手はあからさまに様式の格率を無視している。あえて「歌っていた」というシンプルな言い方をしないということは、X嬢の歌いぶりには通常「歌う」という語が適用される事態とは著しく違ったことがあったということなのだろう。つまり下手くそだと言いたいのだろう」
              • (様式の格率をあえて無視する目的…失礼にならないようにする;責任を逃れる etc.)
          • その他の例:皮肉(質の格率に違反)

 

    • 会話の含みの重要な特徴:
        1. 計算可能:上に述べたような仕方で推論できなきゃダメ。そういう推論がない場合は、含意が何かあるとしてもそれは会話の含みではない。
        2. 取り消し可能:会話の含みを導出する推論は阻止できる。

 

 

  • グライスの立場の問題:
    • 以上の、会話の含みを導出する推論は2ステップに分かれている。(1) 話し手の意味は発話されたその文の文字通りの意味ではない(否定的推論) (2) 話し手はこれこれを実際には意味している(肯定的推論)
      • Davis:2ステップ目(話し手の意味の確定)がどうやって可能なのかについてグライスは何も言ってねぇ!俺たちは皆、問題となる文が何を含みとするのかをすでに知っているから、なんとなく(2)の方をスルーしちゃうけど、含みを前もって知らない聞き手が話し手の意味を推論する手がかりは何なのかをホントは考えなきゃいけないんだ。
      • 関連性理論(会話のメカニズムや含みの伝達は全部「関連性」だけで説明できるぜ)の人たち…そもそもグライスは、(1)のステップにおいて「意味論によって文字通りの意味(真理条件的意味)を特定し」、(2)のステップで話し手の意味を特定する、というモデルをとるが、1ステップ目の「文字通りの意味」の特定は、語用論的な情報がないとできなくないですか?

 

    • 表意(explicature):
      • ステップ(1)に関する問題を解決するために関係性理論の人たちが持ち出す概念。
      • 発話の表意:どんな命題が表現されているのかを決めるために必要な語用論的な情報でもって拡張された意味論的内容
        • 曖昧だったり不完全だったり何が指示されているのかパッと見ただけではわからん表現を含んでいたりするような文が発話されたら、我々は語用論的情報を補って、何が言われているのかを特定しようとするはず。そうやって情報を補うことで帰結する意味論的内容が表意。
        • 関連性理論によると…
          • どうやって情報を補うのか:何が関連しているのかに関する想定から計算できる
          • 更に、出てきた表意と関連性の想定をあわせて、含みの計算がされる
        • イカンの言語哲学の教科書によると、表意は取り消し可能であり、取り消されない場合は「言われたこと」として理解されるらしい。「会話の中であまり間を開けずに話し手がその[…]含意を取り消さないのであれば、話し手は[…]ということを(単に含意したと言うだけではなく)言ったものと見なされる」(邦訳 p. 274)。ただし、表意が「言われたこと」になるのかについては賛否両論らしい。また、表意は取り消し可能ではない、という論者もいるらしい。

 

2 慣習的な含み

 

  • 慣習的な含みは、話し手が言っていることではなく、含みとしていること。言われた文の真理条件とは関わらない。それゆえ含みの一種。

 

  • 会話の含みとの違い:
      1. 慣習的な含みは、推論に基づかない仕方で瞬間的に理解される〔言われる文脈とかも関係なくその含みは伝達される〕
      2. 慣習的な含みは取り消し可能ではない

 

  • 例:「クローバーはラブラドールなのに友好的だ」。
    • 「なのに」はラブラドールと友好的であることの間にはコントラストがあるという話し手の信念に関する情報を伝える。しかしこれはこの文の真理条件には関係ない。
    • andとbutのニュアンスの違い
    • 「だから」
    • 「~も(too)」

ほとんどの反事実条件文は偽なのか...?Alan Hájek "Most counterfactuals are false"(video)の覚書

 https://www.youtube.com/watch?v=fzZ7944AJRk

反事実条件文とは、「もしAだったらCだっただろうに」という形の文だ(形式的には「A□→C」という書き方がされることが多い。)。例えば、このマッチをすれば火がついただろう、とか、桜が一切存在しなかったら春を過ごす人々はのどかな心持ちだっただろう、などである。我々は日常的に結構こういう言い回しをするし、哲学の中でも、哲学的に問題となる色んな概念の分析に登場する。しかし、ほぼ全ての反事実条件文は偽だ、とHájekは言う。

  • Argument

    ・反事実条件文の一つの理解の仕方は、問題となっているある時点において、仮にAが成立していたとすると、そこで成立している条件と物理法則からCが導かれる、ということ(Hájekは、よくある可能世界を用いた分析を好まない...詳しくは省略)。さて、初期条件と物理法則を与えたときに、その後で何が起こるかを予測できない場合がある。それは、初期条件が十分に特定されていないか、あるいは法則が偶然的なものである場合だ。このことが、ほとんどの反事実条件文が偽となるという論証の一つ目と二つ目に繋がる。

    1. chancy consequents 偶然的結果

      ・ある出来事が起こりそうもないからといって、それが起こらないということにはならない。例えば一兆個のくじの中にあたりが一つだけあるとする。一つ目のくじが当たりであることはありそうもない。二つ目についてもそうだ。だが、当たりくじがないというわけではない。

      ・「もし手を離せばコップが落ちるだろう」は一見もっともらしい。しかし、手を離した瞬間にコップが蒸発する確率や、トンネル効果で中国に吹っ飛ぶ確率は0ではない。

      ・偶然的プロセスが関与する場合、反事実条件文は偽となるはずだ。例えば、滅茶苦茶バイアスのかかったコインがあるとしても、「もしこのコインを投げたら、表が出るだろう」は偽だろう。いわば、偶然は「だろう would」を阻害 undermineする。

      Ch(~C|A) > 0 |- ~(A□→C)

      ・確率的な制限をかけたバージョンなら真だ、ということはHajekは認める。例えば、「もしカップが離されたら、おそらくカップは落ちるだろう」は真でありうる。

    2. unspecific antecedents 未特定の前件

      ・仮に世界が決定論的だったとしよう。それでも、ほとんどの反事実条件文は、前件が十分に特定されていないので偽だ。

      ・例えば、「もし私に子供がいれば、髪の毛は偶数本だっただろう」は明らかに偽だ。奇数の可能性だって十分ある。前件が十分特定されていないと、後件が偽になるような可能性

      ・「もし手を離せばコップが落ちるだろう」と言った時、コップが離される瞬間の状態は完全に特定されているわけではない。コップのあるマクロな状態は、さまざまなミクロな状態と両立するので、手放した瞬間に蒸発するような状態になっているミクロな状態も排除されない。

      ・もっとも、そういう物理学的なお話は置いておいても、ほとんどの反事実条件文の前件は、十分に特定されていない。そして、十分に特定されていない反事実条件文は偽だ。いわば、未特定性は「だろう」を阻害する。

    3. 「ではないかもしれない」

      偶然的結果と、未特定の前件のいずれも、「〜でないかもしれない」反事実条件文を導く。例えば、「もしコップから手が離されれば、それは落ちなかったかもしれない」のように。ところで、「ではないかもしれない」の反事実条件文と「だろう」の反事実条件文は衝突する。「もしコップから手が離されれば、それは落ちなかったかもしれないが、もしコップから手が離されれば、それは落ちただろう」はキモい。思うに、「ではないかもしれない」と「だろう」は両立しない。すなわち、「ではないかもしれない」は「だろう」を阻害する。

      A ♢→ C |- ~(A□→C)

      ところで、「ではないかもしれない」反事実条件文はたいてい真だ。それゆえ、「だろう」の反事実条件文は典型的に偽だ。

  • 反事実条件法に関する懐疑論に対してこれまで出されてきた応答のいくつかに反論しておく。

    • それらの応答のほとんどは、Stalnaker/Lewis流の、「類似性」意味論に乗っかっている。それは大雑把には次のような感じだ:

      「もしAだったらCだっただろう」が真である iff 全ての最も類似したA世界(最近接A世界)がC世界である。

      このような考えは広く受け入れられているが、Hajekは同意しない。その理由については大雑把には次の通り。Hájekの考えるところでは、反事実条件文は仮定的予測である。典型的な反事実条件文は、別の世界を含んでいるのではなく、我々のこの世界のなかの、別の時点を含んでいる。その時点とは、前件の真理値がまだ決まっていなかった時点だ。反事実条件文は、その時点で前件が成立していたと仮定した時にその先でどのようなことが起こるのかに関する予測 なのだ。そして、そのような予測をする時に我々は、世界間の類似性など考えない。我々を導くのは確率だ。

    • ところが、Hájekに反対してくる人は軒並み類似性説に乗っている。

    • ところで、ここでいう「類似性」とは?

      • これは、全然常識的な関係ではない。可能世界の類似性のヤバさはKit Fineが指摘した通りだ。ルイスはこれに対して、類似性関係に関する複雑なorderingを与えたが...
        • 反例がある。昨日指を引っ掻いていなかったとして、「もし昨日指を引っ掻いていたならば、真夜中に引っ掻いていただろう」が真になっちゃう。というのも、昨日の23:59に指を引っ掻いた世界が、ルイスの基準だと一番現実に近い世界だから。しかし、なんで真夜中やねん、と言いたくなる。
        • 類似性関係はなんでも出してくれるハリー・ポッターの杖みたいなもんだ。〔便利だ。しかしファンタジーだ、という感じか?〕
    • Hájekへの反論は多々あるが、それらは共通して、反事実条件文が真となるための「ハードルを下げる」という戦略をとっている。しかしその結果、反事実条件法に関して妥当であるはずの推論パターンが破られてしまう。その推論パターンとは次のようなものだ。

      先に見た、

      • 偶然は「だろう」を阻害する
      • 「ではないかもしれない」は「だろう」を阻害する
      • モードゥス・ポネンス
      • (Agglomeration) A□→C1, A□→C2 |- A□→(C1 & C2)
    • Karen Lewis ... 反事実条件法に関する文脈主義的考えをとる

      • Hájekはこの考えも好まない。その理由は次の通り。
        • 反事実条件文の主張は仮定的な予測だ。そして、何が起こるかが発話者の今置かれている文脈ないし会話の目的に可感的だ、とは誰も考えないだろう。
        • そもそも会話の目的が一つある、という考えは無理筋だ。会話の目的などないかもしれないし、二つ以上あるかもしれない。
        • Karen Lewisは、mightの反事実条件文は薄い可能性をレレバントにする、と言う。しかしだとすると、あなたが無知だったり想像力がなかったりすれば、あなたの言う反事実条件文がより真になる、ということになりそうだがこれは奇妙。あることが起こる可能性があるかというのはあなたが何を考えるか等とは独立だ。
    • Leitgeb:A□→C が真 iff ch(C|A) がとても高い

      • 悪くないだろう。しかし、どのくらいchanceが高ければ良いのか?閾値をどこに設定するのか。
      • Leitgebの考えは、"would probably"の説明としては適切。しかしwouldの反事実条件文の真理に関する説明にはなっていない。Leitgebの説を取ると、modus ponesやagglomerationが破られてしまう。"would probably"は実際そういう論理に従っているはずだ。しかしwouldの反事実条件文はそうではない。
      • 加えて、wouldとmight notの非両立性をLeitgebだと説明できない。
    • Hájek自身の考え:閾値は1未満ではありえない。つまり

      A□→C が真 iff ch(C|A) = 1

      ただし"ch":Aの真理値が決まる直前の時点におけるchance関数

      • ほとんどの反事実条件文はこのハードルを越えられない。それゆえほとんどの反事実条件文は偽

      また、mightについては、

      A♢→C が真 iff ch(C|A) > 0

      • ところで、主張可能性の条件はもう少し緩く考えられている。

        反事実条件文が主張可能である iff 対応する条件的chanceが高い

      • Karen Lewisは「反事実条件的懐疑論脅威」とか「反事実条件的懐疑論がその醜い頭を上げる」みたいな言い方をするが、Hájekに言わせれば「カワイイ頭」だ。反事実条件的懐疑論はそんなに怖くないぞ。

      • 反事実条件法はほぼ偽だ、というのは反直観的に思えるかもしれない。しかし...

        • 熟達した話者は、自分たちが使う言葉の意味については権威を持っているかもしれない。自分たちが発話する文の真理条件についても、権威を持っているかもしれない。しかし、だからといって、その真理値についてまで権威を持っているということにはならない!真かどうかは、部分的には、世界がどのようであるかという問題だ。我々は世界のあり方に関して無知でありうる。
        • 常識が間違っているということは別に驚くことでもなんでもない。大抵の人は量子論的効果なんて知りもしないのだから、トンネル効果が起こる可能性なんて考えもしない。科学は常識をしばしば訂正するし、哲学だってそうだ。特に、様相に関する我々の判断なんてヒドいものだ。連言錯誤やらギャンブラーの錯誤やら考えてみよ。なんで反事実条件法に関する常識的判断は正しい、なんて言えるんや。
        • 反事実条件的懐疑論で困るのは哲学者だけだ。
        • 偽なことを言うことにポイントがあるケースは多々ある。反事実条件法に関しても、日常的に言われる偽な反事実条件文は、真な文よりもむしろ主張可能なのだ。「もしこのカップが手放されれば、おそらく落ちるだろう」と(正確に)言うことは、まさにこのカップの手放しが何か特殊な出来事で、普通に落ちる見込みが実は低いということを話し手が知っているというミスリーディングな情報を伝えてしまう。それよか、「もしこのカップが手放されれば落ちるだろう」と偽なことを言った方が良い。ほとんどの反事実条件文は偽だが、それでええやん。

反事実条件文の文脈主義に関する覚書

 

先日のアンケートの結果(https://twitter.com/MasahiraSho/status/1424703708399505414https://twitter.com/MasahiraSho/status/1424704491299872771)おおよそ予想どおりだった。やっぱ(A)の方が気持ち悪いよなぁ… とはいえ、(B)にも気持ち悪さを感じる人がそこそこいることや、(A) への違和感がそこまで強いものではなさそうだというのは個人的に面白かった。テキトーなアンケートだったが、もっとちゃんとデータをとってみたいところではある。

 

ちなみにここでの例は、Jonathan Jenkins Ichikawa (2017) *Contextualising Knowledge*という本からとってきた。問題は、①「もしガマが今夜殺されるならば、アラクは明日、王位につくだろう」と ②「もしガマが今夜殺され、アランも今夜殺されるならば、アラクは王位につかないだろう」はいずれも真っぽいし問題なさそうなのにもかかわらず、単にその連言を取っただけの(A)は受け入れ難いということだ。どう考えたら良いのか。

 

選択肢1は、①は実は偽だ、と見なすことだ。そうすると、(A)も偽ということになる。①も(A)の気持ち悪さは、(A)が偽だということからきているのかもしれない。

しかし、この選択肢には難しさがある。なぜ①は自然に受け入れられるのに(A)は受け入れ難いのかをさらに説明する必要があるだろう。そして次に、①が偽だとしてしまうと、ほとんどの日常的な反事実条件文が偽になってしまわないか、という懸念がある。

 

選択肢2は、②が偽だとすること。しかし、アランが殺されたのちに王位につくというのはありえないだろう。この選択肢は無理筋っぽい。

選択肢3は、(A)を受け入れてしまうこと。しかしIchikawaは、「非常に直観的コストがかかる 」として退ける。

 

上のアンケートをとったのは、(A)が本当に受け入れ難いのか気になったから。実はある人とこの例について話したとき、その人は(A)にさほど違和感を感じないと言っていた。僕は結構強く違和感を持ったのだが、もしかして直観がバラけるのか?と気になった。結果は、割と多くの人が多少は違和感を感じるというものだった。とはいえ、(A)を受け入れることの直観的コストは言うほど高くないのかも。

 

もう一つ面白いのが、(A)と左右を入れ替えただけの(B)は、(A)に比べれば自然に読めてしまうということ。(B)の方が(A)よりもキモくない、というのは説明が必要そう。

 

Ichikawaは、反事実条件文に関する文脈主義を取る。反事実条件文「もしAだったならBだっただろう」が真かどうかは、標準的には、Aが成り立っているという点を除くと現実世界ともっともよく似ているような可能的状況(可能世界)の集合を考えてやり、そのような可能世界の全てにおいてBが成り立つかどうかで決まる(ざっくり)。反事実条件文の文脈主義は、その際考慮にいれるべき可能世界の範囲が発話者の文脈に依存する、というアイデアだ。

 

この考えを取ると、①と②はそれぞれ異なった文脈で真だが、(A)はどんな文脈でも偽だ、ということになるはず。仮に(A)を主張すると、その文脈で関連する可能世界の中で、アランが今夜殺される最近接可能世界たちの全てにおいてアラクは明日王位につくが、その可能世界たちの中でアランも今夜殺される世界においてはアラクは王位につかない、と言われていることになる。

 

割といけそうだなと個人的には思う。あと、この考えをとれば、(B)が比較的自然な理由も説明できそう。(B)の前半部分では、アラクが今夜死ぬ可能性は考慮に入っていなかったが、途中で文脈がシフトし、アラクが死ぬ可能性が考慮に入ることで、後半部分が主張されている、という感じで考えれば良さそう。ではなぜ(A)だと途中で文脈がシフトするように見えないのか。差し当たり、一旦念頭に置いてしまった可能性は、そう易々と無視できないので、考慮する可能性を減らす方向へのシフトは難しいのだ、と考えておけば良いかなと思う。

 

ちなみに、(B)でも気持ち悪さを感じた人が多少いたようだ。そのキモさは、一息で言ってしまっていることに由来しているのではないか?例えば次のようにしたらどうだろう?「もしガマが今夜殺されるならば、明日アラクは王位につくだろう…あ、ちょっと待って。もしガマが今夜殺され、アラクも今夜殺されるならば、明日アラクは王位につかないだろう」。間にワンクッション挟むことで、文脈がシフトする感じが出て、より違和感が減るのではなかろうか?

確率主義とダッチブック論証(D. Bradley (2015) *A Critical Introduction to Formal Epistemology* Ch. 3前半部分のまとめ)

伝統的な認識論だと、(端的に)信じている・信じていない・判断保留 という三つの状態が問題となり、あることを信じている時にそれが正当である条件は何か、などが問題になったりする。一方、形式認識論では端的な信念ではなく確信の度合い(信度)が問題になる。例えば、Aが犯人であることを強く示唆する証拠があるときには、Aを確実に白だと置くのは不合理であり、むしろAを黒置きすべきだ。また、証拠の強さに応じて、黒置きする度合いも変えるべきだろう。我々は端的に信じる/信じないというケースだけでなく、もう少し肌理細かい確信の度合いを持つことができる。信度は[0, 1]区間の実数値で表現するのが慣例となっている。

認識論の一つの課題は、どのような信念を持つことが合理的かを明確にすることだ。それは形式認識論でも同じ。形式認識論の場合、どのような信度を持つことが合理的かが問題になる。信度が合理的であるための制約を明らかにして行くことが課題だ。そのような制約としてはいくつかのものが提案されているが、そのうちの一つで一番有名なのが、「確率主義」だろう。確率主義は、<信度は確率的であるべきだ>という制約だ。例えば、わかりやすいトートロジーには1を振るべきだろうし、Pに0.7を振るならPの否定には0.3を振るのが合理的、という感じがする。

もっとも、確率主義に素直に従うと、全ての論理的真理には信度1を振るべきということになるが、超複雑なトートロジーとか証明されていない数学的真理とかに1を振ることは我々には難しい。なので確率主義は、最強の合理的主体にのみ当てはまる制約だ。とはいえ、確率主義はシンプルだしそれなりにもっともらしいので、いわば近似としてとりあえず受け入れて、追々近似の精度を高めていけば良い。

確率主義を擁護する論証としてもっとも有名なのが「ダッチブック論証」と言われるものだ。ダッチブックとは、どんな結果が出ても賭け手が損をするような賭けのことを言う。なんで「ダッチブック」と呼ばれるのかは知らん。ダッチブック論証は、確率主義を破ると確実に損をする賭けが作れてしまう、と論じるものだ。

まず、「賭け値(betting price)」という概念を導入しておく。例えば次のようなケースを考えよう。ノミ屋が次のように言ってきた。「明日世界的にUFOの調査が行われる(これは事実だとしよう)。UFOが見つかるかどうかで賭けをしよう。もしUFOが見つかったら1万円出そう。しかし見つからなかったら一銭も渡さない」。さて、あなたはこの賭けに何円までなら出す?

もしあなたがUFOは存在しないと確信しているなら、賭けに乗らないだろう。つまり、あなたが出す金は0円だ。一方で、もしあなたがUFOは絶対に存在すると確信しているなら、1万円までなら出すだろう。では、もしあなたの信度が0.8だったら?8000円までなら出すのではないだろうか?この8000円が賭け値だ。一般化すると次の通り:賭け値は、もし仮説Hが真ならば1万円(偽なら0円)貰えるチケットに主体が払うことを厭わない金額の最大値である。

また、賭け値は、もしHが真ならば1万円(偽なら0円)貰えるチケットを主体が売ることを厭わない金額の最小値でもある。もしあなたの信度が0.8なら、8000円未満では売らないだろう。

次に、ダッチブック定理を紹介する必要がある。

ダッチブック定理:もし一連の賭け値が確率の規則を破っているなら、それらの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在する。

例:負の賭け値を持っている場合...買う場合だとよくわからんが売る場合を考えるとわかりやすいかも。例えば賭け値が-2000円とすると、要はチケットを売る際に、相手に2000円渡してチケットを持っていってもらうということになる。Hが偽でも真でもその2000円は返ってこないし、真なら追加で一万円払うことになる。

トートロジーに一万をかけない場合...賭け値が一万円を超える場合は、勝てば一万円のチケットを、例えば二万円で買うなんてことになる。また、Hがトートロジーの場合、Hに一万未満(例えば8000円)をかけるとすると、not-Hに対しては2000円までなら出すということになってしまう。not-Hは確実に偽なのであなたは確実に損をする。

加法性を破る場合...両立しない命題XとYについて、Xに4000円、Yに4000円、X or Yに6000円の賭け値を与えるとすると、次のような賭けを構成できる。

賭け1:Xが真の場合その場合に限り一万円支払われるチケットをノミ屋から買う

賭け2:Yが真の場合その場合に限り一万円支払われるチケットをノミ屋から買う

賭け3:XまたはYが真の場合その場合に限り一万円支払うチケットをノミ屋に売る

これら三つの賭けに、それぞれの賭け値でもってあなたが賭けに乗るとする。すると、賭け1に4000円、賭け2に4000円支払い、賭け3で6000円受け取ることになる。差額の2000円分が財布の外に出たはずだ。そしてこの2000円は残念ながら返ってこない。というのも...

  • Xが真の場合:賭け1で勝つので1万円貰えるが賭け3で負けるので1万円ロスする
  • Yが真の場合:賭け2で勝つので1万円貰えるが賭け3で負けるので1万円ロスする
  • いずれも偽の場合:どの賭けにおいても金の授受が起こらない。

以上で準備が整った。ダッチブック論証は次の通り。

前提1. あなたの信度はあなたの賭け値と一致すべきだ。

ダッチブック定理:もし一連の賭け値が確率の規則を破っているなら、それらの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在する。

前提2. もしあなたの賭け値でなされる賭けからなるダッチブックが存在するならば、あなたを確実に損させることができる。

前提3. もしあなたを確実に損させることができるならば、あなたは非合理的だ。

結論. ゆえに、もしあなたの信度が確率の諸規則を破っているならば、あなたは非合理的だ。

以上だ。

ダッチブック論証のそれぞれの前提にはツッコミどころがある。一つずつ簡単に確認しておこう。

前提1について:例えば、一万円あれば飛行機に乗れるが手元に6000円しかないとしよう。その時あなたが誰かに、偏りのないコインを投げて表が出れば一万円、裏が出れば0円払う賭けに6000円で乗らないかと提案されたとする。あなたがこの賭けに乗るのは合理的かもしれない。主体がどのような賭けに乗るかは、信度とその結果得られる効用の両方に依存するように思われる。そして、効用は賭けの金額と必ずしも比例しない。上のケースだと、9999円より1万円得る方がはるかに効用が高いのだ。それゆえあなたは、自分の信度と一致しない値段で喜んで賭けに乗るかもしれない。ゆえにP1は偽だ。

前提2について:ダッチブックが存在しても、賭けなきゃ良いじゃ〜ん!という元も子もない応答が可能だ。賭けなければ損もしないのだから。

前提3について:確実に損をさせることができるような状態にあることがむしろ得になるケースがあるんじゃね?例えば...ぶっ飛んだ大金持ちが、確率の初期速を破るような信度を持ったやつに1億やろう、と言い出したとする。すると、非確率的な信度を持つ奴が一億円ゲットできることになる。こういうケースを考えると、非確率的な信度を持つ奴が非合理とは言い切れないのでは?

以上のツッコミは全部根っこが共通している。要は、ダッチブック論証はプラグマティックな論証だという所から生じているのだ。ダッチブック論証は、金銭的に損をしてしまう主体の話をしているが、元々問題にしたかったのは、どういう信度を持つことが認識的に合理的かということだった。金銭的に損をするというのは、信念の認識的合理性と間接的にしか関係しない。

ダッチブック論証を改造してプラグマティックな要素を取り除く、という戦略が考えられるが、現状この戦略はあまりうまく行っていないようだ。そこで、確率主義を擁護するための別の戦略として、Jim JoyceやRichard Pettigrewらがaccuracy argumentという別種の議論を行なっている。PettigrewのAccuracy and the Laws of Credenceは途中まで目を通したが、かなり骨の折れる本だった。個人的には、結構いけそうな路線だとは思うが、検討するのはめんどくさいなと思った。まあいつか機会があったらaccuracy argumentについても簡単にまとめてみたい。

知識ロンダリングー鋭敏性不変主義とTransmission principleー

最近読んだJ. MacFarlane (2005). "Knowldge laundering: Testimony and sensitive invariantism" という論文が面白かったので紹介する。

 

知識帰属に関して「鋭敏性不変主義」と呼ばれる立場がある。これは、文脈主義のように「知っている」という語の意味(それが表す主体と命題の関係)がその語の使用の文脈に応じて変化しうるとは考えずを否定し、「知っている」という語の意味は文脈に対して不変だとする〔それゆえに不変主義〕。その上で、主体が当該命題に対して「知っている」関係のもとに立っているかどうかが、評価の状況における主体のpracticalな状況に依存する、と考える立場である。この立場と、証言による知識に関する(controvertialではあるが)広く受け入れられているとされる次の原理の折り合いが悪い、というのがこの論文の趣旨である。

Transmission Principle: If B knows that p, then if B asserts that p and A accepts B’s testimony without doxastic irresponsibility, A also comes to know that p.
ここで "without doxastic irresponsibility" というのは、話者の言っていることが偽だったり、あるいは話者が信頼できなかったりするために聞き手が話者の証言を無視するようなケースを排除するために付けられている。
 
鋭敏性不変主義とTransmission Principleを同時に受け入れると、次のような変なことが起こる。
 アーノルドとベスは車を一台シェアしており、その車はいま車庫*1においてあるとしよう。ベスは数時間前、出勤する直前に、車が車庫にあるのを見た。そしてまたベスは、アーノルドとベスの二人だけが鍵を持っており、しかもアーノルドは今週ずっと町の外にいることを知っている。これらは車が車庫にあると信じるたいへん良い理由である。
 ところでベスは、今日か明日に自動車保険をかけるかどうか決めようとし、それゆえに車が車庫にあるかどうかに関する認識的基準が跳ね上がったとしよう。ここでベスに要求されるのは、ベスが出社したのちに車が盗まれているという可能性を排除できることである。この可能性が排除できない限り、ベスは車が車庫にあるとは知らない、ということになる。
 ところでアーノルドは、依然として低い認識的基準の下にあるとしょう。さて、ずっと出かけていた彼は空港に到着し、晩飯のことなどを考えている。アーノルドは、車が車庫にあると信じる理由を持っていない。なぜなら彼はここ一週間出かけていたし、ベスが車で会社に行くこともあるから。そこでアーノルドはベスに電話をかけて「車は車庫かい?」と尋ねた。ベスは「そうね、私は朝そこにおいてきたからね」と答えた。アーノルドはこの証言を疑う理由を持っていないので、Transmission principleより、ベスは朝に車を車庫に置いてきたのだということを知り、そこから推論して、車は車庫にあるのだと知った(アーノルドの認識的基準は低い)。*2
 さて、二時間後、アーノルドはベスへのサプライズプレゼントを買うためにしばらく空港にいたので、まだ帰宅しておらずタクシーの中だった。そこにベスから電話が入る。ベスはまだ、自動車保険に入ろうかどうしようかと考えており、アーノルドはとっくに帰宅しただろうから車庫に車があるかどうかアーノルドに聞いてみようと思い電話をかけてきたのだった。「車は車庫にある?」と問われたアーノルドは、彼が車を持ち出したかどうか確かめるために電話をしてきたのだと解釈し、「まだ車庫にあるよ」と自信満々に答えた。ベスは彼の証言を信じた。彼女には、アーノルドを信用できないと考える理由もなかったし、彼が帰宅していないと考える理由もなかった。それゆえ、Transmission principleに従えば、ベスは車が車庫にあるということを知っていることになる!
 何が起こったのか。アーノルドは、ベスが与えた以上の証拠を新たに獲得したわけではない。ベスは彼女の証拠を、より低い認識的基準の下にあるアーノルドを介して循環させるだけで、単なる信念を(高い認識的基準を超えた)知識に変えてしまったのだ。これが「知識ロンダリング」である。なかなかに反直観的な帰結ではないだろうか?このような帰結を受け入れたくなければ、もしMacFarlaneの議論が正しいならば、鋭敏性不変主義かTransmission Principleのどちらかを諦めなければならないだろう。
 ちなみに知識ロンダリングは、過去の自分の証言を頼るような状況を考えることで、登場人物が一人だけの例を作ることもできる。元の論文では、ありうる反論に対する応答もあるので興味のある人は確認してほしい。短い論文なので。
 
 

*1:元の論文ではdrivewayだが、イメージしにくいし訳しにくいので車庫にした。

*2:補足:この電話の時点でベスが既に高い認識的基準の下にあるなら、彼女は車が車庫にあることを知らないので、Transimission Principleの前件が満たされないはず。この時点ではまだベスは保険をかけるか悩んでおらず、基準が低いと考えるべきだろう。悩み始めるのはこの電話の後だ、としないとマズイはず。

Lewis. (1979). “Scorekeeping in a language game” 読書ノート

Lewis. (1979). “Scorekeeping in a language game” の読書ノート(レジュメ)です。

 例1. 前提

  • うまくいっている会話の中の任意のステージにおいて、ある程度のことが前提されている。前提は、一つの会話の過程の中で、創られたり壊されたりしうる。
    • この変化はすくなくともある点において、規則に支配されている時点t’における諸前提は、少なくともいくつかの一般的な諸原則を定めることができるような仕方で、それ以前の時点tにおける諸前提および、tとt'の間の会話(および近くの出来事)の経過に依存している
    • 前提が要求されるような主張が存在する。そのような主張が受け入れ可能(acceptable)なのは、要求されるところの前提が実際に成り立っている時その時に限られる(例「フランス国王はハゲだ」はフランスに国王がただ一人存在することを要求する)。
    • 要求される前提が成り立っていない場合、どのような種類の非-受け入れ可能性が生じるのかについてはいろんなことが言われている(偽だ;真理値を欠く;前提が欠けている場合に固有の非-受け入れ可能性だ;ケースバイケースだ)。ここではこの問題には突っ込まない。
  • 必要な前提がないために許容不可能なことを言うのは意外に難しいかも。欠けている前提を要求するようなことを言えば、その前提が存在することになり、結局のところあなたが言ったことは受け入れ可能になってしまう(少なくとも、あなたの会話のパートナーがあなたの言ったことを黙認した場合には(つまり、「フランスに国王は3人いるじゃんか!!」とか言ってくる人がいないならば)そうなる)。
    • だからこそ、突然「フレッドの子どもたちはみんな眠っているんだが、フレッドには子供がいる」と述べるのは奇妙。最初の部分は、フレッドには子どもがいるという前提を要求し、それによってフレッドには子どもがいるという前提を創ってしまう。後半部分は、それが言われたときにすでに前提されていること以上のことを何も付け加えないので、会話におけるポイントがない。
      • 前後をひっくり返して、「フレッドには子供がいて、フレッドの子供たちはみんな眠っている」と言うのは奇妙でない。
    • 前提は、会話の中で多かれ少なかれ規則に支配された仕方で進展すると先に述べた。ここで、一つの重要な支配規則を作ることができる。それを「前提の融通規則」(rule of accommodation for presupposition)と呼ぼう。

 

もし、tの時点で、前提Pが受け入れ可能であることを要求するようなことが言われ、またもしtの直前にPが前提になっていなければ、——他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で——前提Pは時点tにおいて存在することになる。

 

この規則はまだちゃんと述べられていないし、前提の運動学を支配する唯一の規則でもないが、このことを心に留めておいて、次の話題に移ろう。

 

 

 

例2. 許容可能性 (permissibility)

  • 主人と奴隷がいるとする。主人は奴隷を言葉で次のようにコントロールするとしよう。
    • 奴隷化するどの段階においても、奴隷の行為には許容可能なものとそうでないものとの間に境界がある。許容可能な行為の範囲は拡大したり縮小したりする。主人は、奴隷に何か言うことでその境界線をずらす。奴隷は自分の行為が許容可能なものであることを確認するために最善を尽くしているので、主人は何が許容可能なのかをコントロールすることで、奴隷をコントロールすることができる。
    • では、主人はどのように境界をずらすのか。主人は、こういう行為は許容されないぞ、と奴隷に言う。そのような発言の真理値は、許容可能なことと許容可能でないことの境界に依存する。もし主人がこれこれは許容されないと言った場合、もし境界線が静止したままであるならばそれが偽であるとしたら、境界は即座に内側に移動する。許容可能な範囲は、主人の言うことが結局は真であるように〔なるように〕収縮する。これにより、主人は、以前は許容されていた行為を禁止する。(もちろん、逆に許容可能なことの範囲を広げることもある。)
  • 許容可能性についての主人の発話の真理は境界の位置に依存する。境界は規則に支配された仕方で移動する。この規則を「許容可能性の融通規則」と呼ぼう。これは次の通り。

 

もし、時点tにおいて、奴隷が主人にそれが真であるためにある行為の許容可能または非許容可能性を要求するようなことを言われ、tの直前に境界が主人の言明を偽にするようなものであるならば、——他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で——tにおいて主人の言明が真になるように境界がシフトする。

 

繰り返しになるが、これは定式化として不十分。一つには、境界や「他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で」が依然として特定されていない、ということがある。また、もっと重要な問題として、上の規則は境界がどのように移動するかをちゃんとは述べていない

 

  • もし主人が、それ以前には許容可能でなかった諸行為に関して「これこれの行為のうちのいくつかは許容可能だ」と言ったらどうなるか。それらの行為のうちのいくつかが許容可能になるわけだが、どれがそうなのか?
    • 一つの考え:最も許容可能性に近いやつだ!
    • この考えは、正しいかもしれない。しかし、ここで新しい問題が生じる。「最も許容可能なやつ」を取り出すためには、非許容可能サイドの諸行為の間で、どれが許容可能性に近いのかに関する比較できるような関係(a relation of comparative near-permissibility)を与えないといけない。それゆえ我々は、境界のシフトに関する規則だけではなく、このcomparative near-permissibility関係がどう変化するのかにを支配する規則を見つけないといけない。
    • また、主人が、どのクラスの行為がどのクラス行為より許容可能性に近いのかについて述べるかもしれない。その時にcomparative near-permissibility関係がどう動くのかもちゃんと述べないといけない。

 

以上が二つの例である。何の例か述べる前に、余談を挟む。

 

野球のゲームにおけるスコア記録

 

  • うまく行っている野球のゲームにおける任意のステージにおいて、そのステージにおけるそのゲームのスコアとLewisが呼びたい、次のような数の7つ組みが存在する。<rv,rh, h, i, s, b, o> である。
    • rv:来訪チーム(visiting team)の得点(runs)
    • rh:地元チーム(home team)の得点
    • h:表か裏か(hhalf)…表ならh= 1、裏ならh= 2
    • i:イニング数(回)
    • s:ストライクの数
    • b:ボールの数
    • o:アウトの数
  • 野球の規則を成文化してやると、次の四種類の規則からなるはず。
  • スコアの運動学(kinematics〔...なんて訳すのが良いんですかね〕)の特定:始めのスコアは<0, 0, 1, ,1, 0, 0, 0>である。その後、もし時点tにおいてスコアがsであり、tとt’の間にプレイヤーがmの仕方でふるまえば、時点t’においてスコアはs’であり、s’sとmによってある仕方で決定される。
  • 正しいプレイの特定:もし時点tにおいてスコアがsであり、tとt’の間にプレイヤーがmの仕方でふるまえば、そのプレイヤーは不正な仕方でふるまったことになる(正しさはスコアに依存する:2ストライクの後で正しいプレイは、3ストライクの後で正しいプレイと異なる)。これらの規則に従って不正でないようなプレイは、正しい。
  • 正しいプレイを要求する命令:全てのプレイヤーは、ゲーム中は、そのプレイが正しいような仕方でふるまわなければならない。
  • スコアに関する諸命令:プレイヤーたちはある方向にスコアを展開する努力をしなければならない。訪問チームのメンバーはrvを大きくしrhを小さくするように、地元チームのメンバーはその逆をするように努力しなければならない。

 

  • 規則(1)と(2)は構成的規則である。
    • 「スコア」と「正しいプレイ」の特徴づけ。それらの定義というわけではなく、「スコア」と「正しいプレイ」の合理的な定義からの帰結である。また逆に、これらの特定を与えておけば、そこから「スコア」と「正しいプレイ」を定義することもできる。
  • 規則(3)と(4)は統制的規則である。
  • 野球の規則は、原理的には、スコアやその構成要素に関する定義可能な語を用いることなしに、ふるまいに関する命令として形式化されうる。また逆に、野球の規則は、スコア関数(ゲームの局面から数の7つ組への関数)、スコアの構成要素、および正しいプレイの明示的定義として定式化されうる。しかし、前者の方法はルールブックをぜんぶ命令に詰め込んでしまうし、後者の方法はルールブックを一つの予備的な定義に詰め込んでしまうので、これまでそんな定式化がされることはなかった。
  • 代替:野球を操作主義ないし法実在論と同様のものとみなす。構成的規則に訴える代わりに、スコアは、あるスコアボードがそうであると述べるものだ、と考えるのである(スコアボードは実際に置いてあるものでもいいし、審判の頭の中にあるものでも良いし、たくさんの人の頭の中にあるものでも良い)。この見解では、「スコアの運動学の特定」は、もはや構成的規則ではなく、プレイヤーのふるまいが権威あるスコアボードに変化を引き起こす仕方に関する経験的一般化だ、ということになる。
  • いずれの分析が正しいかには興味がない。ここでやりたかったのは、二つの分析が区別できるよということだけ。

 

 

会話のスコア

 

  • うまく行っている会話ないし他の言語的相互作用のプロセスにおける任意のステージにおいて、野球のスコアの構成要素と類似したたくさんのものがある。アナロジーは次の通り。
  • 会話のスコアの構成要素たちは、野球のスコアの場合と同じく抽象的存在者である。ただし、数ではなく、他の集合論的構成物かもしれない。例えば、前提されている諸命題の集合、許容可能な行為とそうでない行為の間の境界、など。
  • どんなプレイが正しいかはスコアに依存する。発話された文は、その真理値や他の点での受け入れ可能性が、発話された時の会話のそのステージにおける会話のスコアの構成要素たちに依存する。それゆえ、発話された文の構成部分(サブセンテンス、名前、述語など)もその内包ないし外苑がスコアに依存するかもしれない。
  • スコアは多かれ少なかれ規則に支配された仕方で進展する。スコアの運動学を特定する諸規則がある:

 

もし時点tにおいて会話のスコアがsであり、時点tとt’の間における会話の過程がcであるならば、時点t’においてスコアはs’であり、s’sとcによってある仕方で決定される。

 

あるいは少なくとも次の通り。

 

もし時点tにおいて会話のスコアがsであり、時点tとt’の間における会話の過程がcであるならば、時点t’においてスコアは可能なスコアのクラスSの何らかのメンバーであり、Sはsとcによってある仕方で決定される。

 

  • 会話の参加者は、会話のスコアの特定の構成要素たちをある方向に動かすよう努力せよという命令に従うか、あるいは単純にそう努力したいと欲するかもしれない。
  • スコアの運動学を特定する規則は構成的規則とみなされるかもしれない。
    • 構成的規則は明示的定義に置き換えられるかもしれない(会話のスコア関数が定義できるかもしれない)。
    • 逆に、会話の参加者の心的スコアボード——何らかのそれにふさわしい態度——によって操作的に定義されるかもしれない。この場合、スコアの運動学を特定する規則は、スコアボードに記録されるものが会話の歴史にどのように因果的に依存しているかに関する経験的一般化となる。
  • 野球の場合、どのアプローチを取っても問題なさそうだった。しかし、会話のスコアの場合、どちらのアプローチにも問題が生じる。
    • もし諸規則が特定する会話のスコアの運動学が深刻に不完全であるならば(そしてそれはありそうなことだが)、スコア関数の候補がたくさん出てきてしまうだろう。
    • 会話参加者のスコアボードを構成する心的表象とは何なのかを、循環を生じさせずに述べるのは難しい。
  • 三つめのアプローチ(中間アプローチ):会話のスコアは、会話参加者のスコアボードがそうだと述べるものだ。ただし我々は、その心的スコアボードとは何なのかについて何かを述べることを差し控えなければならない。ともかく、何らかの心的表象が存在し、次の意味でスコアボードの役割を果たすと想定しよう:それらが記録するものは、スコアが諸規則にその仕方で従うべきであるような仕方において会話の歴史に依存する。スコアボードは何であれこのような役割を最もよく果たすものなのであり、スコアは何であれスコアボードが記録するものだ、ということになる。
    • このアプローチだと、スコアの運動学を特定する規則はある意味で構成的なのだが、スコアの定義に遠回りに入ってくるに過ぎない。それゆえ、スコアの実際の進展がこの規則を破ることもあって良い。

 

 

融通規則

 

  • 野球のスコアと会話のスコアの代打には一つ大きな違いがある。それは、奴隷と主人と例で見た「融通規則」の有無である。
    • 野球の場合、3ボールの後でバッターが一塁に走って行ったらそれは正しい行為ではない。そのプレイを正しくするために要求されるのは4つめのボールであるが、まさにその事実がスコアを変えて4ボールにしてしまう、というような融通規則などない。
    • 言語ゲームは違う。会話のスコアは、何であれ生じることを正しいプレイにカウントされるようにするために要求されるような仕方で進展する傾向にある。常にそうというわけではなくあくまでそういう傾向にあるというだけだし、会話のスコアが他の理由によって変わることもあるのだ、としておこう。それでも、会話のスコアの多くの構成要素は融通規則に従うし、これらの規則は会話のスコアの運動学を支配する規則の中でも特に重要なのだ。
  • 会話の融通規則とはどのようなものか
    • 例1…誰も反対しない場合、言われたことによって要求される諸前提は存在するようになる。このことを特定するような融通規則に従って、前提は進展する。
    • 例2…行為の許容可能な範囲の境界について述べられたことが、主人から奴隷に対して述べられており、しかも彼が述べることを真にするような何らかのシフトが存在する場合、主人がその境界について述べたことが真となるようにその境界がシフトすることを特定するような融通規則に従って、許容可能性は進展する。
    • 以上をふまえて、会話のスコアの融通規則の一般図式が与えられる。

 

もし時点tにおいて、もしそれが真であるかあるいは受け入れ可能であるようになるならば会話のスコアの構成要素snが範囲r内の値を持つということを要求するようなことが言われるならば、そしてもしsnがtの直前において範囲r内の値を持っていないならば、そしてまたしかじかのさらなる諸条件が満たされるならば、tにおいてスコア構成要素snは範囲r内の何らかの値をとる。

 

  • この図式に当てはまる事例はたくさんある。以下ではさらなる例を考察し、それらの共通パターンを見ていく。

例3. 確定記述

 

  • 「そのF」という確定記述がxを表示するのはどういう時か。
    • 次のように考えるのは間違い。①「そのF」という確定記述がxを表示するのは、xが存在する唯一のFである時その時に限られる ②…のは、xが文脈的に決められる談話のドメインにおける唯一のFである時その時に限られる。
      • というのも次の文を考えよ:「その豚はブーブー鳴いているが、垂れ耳のその豚はブーブー鳴いていない」。この文は真でありうるが、真であるためには、「その豚」は二匹の豚のうちの一方を表示しておらねばならず、しかも二匹とも談話のドメインに属する。
    • 正しい取り扱いは次の通り:「そのF」という確定記述がxを表示するのは、xが、何らかの文脈的に決定される際立ち(salience)ランキングに従って、談話のドメインにおける最も際立ったFである時その時に限られる。
      • 豚の例だと、その文が意味しているのは最も際立った豚がブーブー鳴いているが垂れ耳の最も際立った豚は鳴いていない、ということである。
    • 際立ち(salience)はどのように獲得されるか。例:「その猫」
      • 私とあなたが一緒の部屋で話をしている。ブルースという名前の猫も一緒にいて荒ぶっている。この時ブルースは、会話の流れと関係なく際立っている。ここで「その猫」と言う時、この語はブルースを指す。
      • ニュージーランドにいるうちの猫」と述べることで、私はアルバートに言及することができる。アルバートについてもっともっと語り、またブルースについて何も言及しないことで、私はアルバートの際立ちを会話的手段で上げることになる。その結果「その猫」はブルースではなくアルバートを指すことができるようになる。
      • 比較できる際立ちのランキングは会話のスコアの構成要素である。そのため、確定記述の表示はスコア依存的である。それゆえ確定記述を含む文の真理値ないしそれ以外の許容可能性もまたスコア依存的である。
    • 融通規則は、際立ちの運動学を支配する規則の一つである。
      • 例:アルバートが際立っている状態で、おもむろに私が「その猫、君に襲い掛かりそうだぜ!」と言ったとする。もしアルバートが依然として最も際立っており「その猫」が最も際立った猫を表示するならば、私の述べたことは偽である(アルバートはNZにいるので)。私の述べたことは、許容可能であるためには「その猫」がブルースを表示することを要求するし、それゆえブルースが再びアルバートより際立つことを要求する。〔融通規則より、〕先のように述べることで、私はブルースを再び際立ったものにするのである。次に私が「その猫はちゅーるが好きなんよ」と言ったら、「その猫」はブルースを表示する。
      • 比較できる際立ちについての融通規則は次の通り:

 

もし時点tにおいて、もしそれが許容可能となるならばxがyより際立っていなければならないということを要求するようなことが言われるならば、そしてもしtの直前にxがyより際立っていないならば、——他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で——tにおいてxはyより際立つようになる。

 

  • 注意:融通規則は発話された文の受け入れ可能性を保存する必要があるときにスコアのシフトが生じるということを言っているが、だからといってその保存は完璧ではない。融通規則に頼りすぎるのは会話の実践として良いものではなく、ある範囲で紛らわしく着いて行き辛いことを話者は言っていることになる。しかし、たとえその人の述べることが完璧に受け入れ可能ではないとしても、際立ちのシフトがなかった場合の受け入れ不可能性(偽;トリビアルな真理;保証されていない主張など〔例は 349〕)よりはよっぽどマシなのである。

 

 

例4. 来る& 行く

 語りにおける指示の点(point of reference)も会話のスコアの構成要素である。

詳しくは省略

 

 

例5. 曖昧性

 

  • 「フレッドはハゲだ」は(フレッドがボーダーラインにいるなら)境界をどう弾くかに依存して真偽が決まる。線引きには様々あり絵、唯一の正しい境界をピックアップすることができない。
  • 線をどう引こうが関係なく真であるような文については、我々はそれを単純に真なものとして扱う資格がある。一方で、その曖昧性の線引きの範囲の十分に広い範囲で真であるならば(=「十分に真である」ならば)、我々はそれも多かれすくなからあたかも単純に真であるかのように扱う。つまり、我々はそれを主張することを厭わないし、但し書きなしで同意するだろうし、我々の新年のストックに入れるはず。
  • では、文が十分に真であるのはどういう時か?「十分に広い」範囲とは?
    • これは、それ自体が曖昧な問題である。ことによっては文脈に依存する
    • 働いている正確さに関する基準は会話ごとに違うし、一つの会話の流れの中でも変わる。g. 「フランスは六角形だ」…多くの文脈において十分に真だし、また多くの文脈においては十分に真でない。
      • 正確さに関する低い基準のもとではその文は受け入れ可能だし、基準をあげると受け入れ可能性を失くす。
    • 正確さに関する基準も会話のスコアの構成要素だとみなせる。すると、ここでも融通規則が見出される。
      • 基準を変える一つの方法:その基準が変わらないままであると受け入れ不可能になってしまうことを言う。
      • 融通規則は基準を高くする方向へも低くする方向へも働きうる。しかし、ある理由によって、基準を上げるほうが下げるよりもスムーズに行く
        • もしこれまで基準が高くて、より低い基準のもとでのみ真であるようなことが言われ、そして誰も反対しなければ、基準は下がることになる。
        • しかし、たとえより低い基準のもとでなら真であるようなことが言われたとしても、それは完全には受け入れ可能でないように見えるかもしれない。また、基準をあげることは、仮に我々の会話の目的を阻害するとわかっている時でも勧められうるように見えることもある。この非対称性のゆえに、言語ゲームの参加者は、基準を可能な限り上げようとすればそれができてしまうかもしれない。
      • Peter Ungerは、ほとんど何も平らではないと論じた。
        • 「平らだ」は絶対的な語(absolute term)である:平らであるようなものよりもより平らなものなど存在しない。とことで、あなたがこれは平らだ、と主張するほとんどのものに対して、それより平らなものを挙げることができる。それゆえほとんど何も平らではない。
        • 「平らだ」は絶対的な語だ、という前提に反対する人もいるが、Lewisはこの前提は正しいと思っている。
        • 彼に対する正しい応答はこうだ:Ungerは、あなたに基づいて会話のスコアを変えている。彼が、「机は道路より平らじゃんか」と言ってくる時、彼が言っていることは、正確さに関する上がった基準のもとでのみ受け入れ可能である。そして、融通規則によって基準は上がる。すると、道路は平らだというのはもはや真でなくなってしまう。このことは、それがもともとの文脈においては真だったということを変えたりしない。それゆえ元々の文脈のもとでの「その道路は平らだ」と上がった基準のもとでの「その机はその道路より平らだ」は矛盾しないのである。Ungerがやっていることは結局、ほとんど何も「平だ」と受け入れ可能な仕方では言われなくなってしまうような〔基準がメチャクチャ高い〕異常な文脈を作り出しているだけである。そして彼は、その文脈が他の文脈よりもより適正だということは一切言っていないのである。
      • Ungerは同様の議論を「確信している」についても行った。それにより、誰もほとんど何も確信していないと論じた。しかしこれについてもパラレルな応答を与えることができる。

 

 

 

 

 

 

 

例6. 相対的様相

 

  • 「できる(can)」や「に違いない(must)」は大抵、絶対的な(「論理的」あるいは「形而上学的」)可能性を表現するわけではない。むしろ、様々な相対的様相を表現するはずだ。
  • その際、全ての可能性が考慮されることはない。
    • 自然法則を侵犯するような可能性を無視すると物理的様相が得られる。
    • 成立していないと知られていることを無視すると認識的様相が得られる。など。

このことから、様相的述語は多義的だ、と言いたくなるかも。しかしKratzerの言うように、そうだとすると〔いくら多義的だと言っても〕想定される意義がメチャクチャ多くなる。それゆえ、次のように考えるのが良いだろう:様相的述語は多義的ではなく相対的なのだ、と。

  • 相対性は時折明示化される。e. g. 「知られていることからすると (in view of …)」…こういう表現は、どんな可能性が無視されるべきかを教えてくれる。しかし、こういうフレーズがない場合もある。
  • 上のようなフレーズがない場合は、文脈が導き手になる。関連する可能性と無視される可能性の間の境界は、会話のスコアの構成要素であり、様相的述語の入った文の真理値に関わる。
    • 「in view of …」というフレーズは、そのフレーズがかかる文のみに影響するのではなく、その後に続く文の中の様相的述語の解釈に関してさらに何か言われるまではのこり続ける。
  • その境界もまた、融通規則にしたがってシフトする。
    • 政治家の例…省略
    • 認識論の例:〔ルイスの認識論的文脈主義のアイデアがここに見て取れる!〕
      • 常識的認識論者、述べて曰く「私はその猫がその箱の中にいるということを知っている。目の前に見えているのだからね。それについて私が間違っていることなどあり得ない!」

懐疑論者、答えて曰く「君は悪霊の餌食になっているかもしれない。」

  • このように述べることで、懐疑論者はそれまで無視されていた可能性を考慮へともたらす(この可能性が〔適切に〕無視されている限り彼の述べたことは偽になってしまう)。こうして境界は、彼の述べたことが真になるように外側へとシフトする。
  • 一旦境界がシフトすれば、常識的認識論者は負けを認めなければならない。しかし常識的認識論者は、元々の会話のスコアの元では何も間違ったことなど言ってはいなかったのだ。
  • 懐疑論者は反論し難いことを言っているという印象を我々は持つ。これは、融通規則が完全には反転不可能だからだ。境界は、外側には簡単に動くが内側には必ずしもそうではない。この非対称性のゆえに、外側にシフトした境界に照らして真であることが、元々の境界に照らして真であるようなことよりもより真であるような気がしてしまう。しかしこれは単なる印象でしかなく、そのようなシフトによって真理に近づく、なんてことはないのである。

 

 

例7. 遂行文performatives

 

  • 遂行文…Austinは真理値を持たないと言ったが、持つと考えることもできる。この考えのもとでは、遂行文は、その発話をなすことによって実際にそこで想定されている行為がなされる場合その場合に限り真という値を持つ。この時、遂行文の発話によって何が生じるのかは、融通規則によって支配された会話のスコアの変化として記述されるかもしれない。
  • 例えば、婚姻関係は融通規則によって支配された会話のスコアの構成要素である。「この指輪でもって私とあなたは結婚する」と述べる(プロポーズする)ことで、融通規則によってスコアが変わる。
    • だからと言って婚姻は言語的現象ではない!会話のスコアの変化は言語の中だけで影響を持つわけではない。我々の言語仕様は他の社会的実践と混じり合う。遂行文の事例はこのことを教えてくれる。

 

例8. プランニング

  • プランも会話のスコアの構成要素である。(詳しくは省略)

 

 

J. Hawthorne (2002) “Lotteries, Lewis and Preface” 読後メモ

J. Hawthorne (2002) “Lotteries, Lewis and Preface” は、D. Lewisの文脈主義に対する厄介な問題を提示し、Lewisに寄り添いながらその解決を目指す論文である。

 

 提示される問題は次の通り。ベンは5000人の友達がおり、全員がギャンブルで負けまくってスッカラカンになっている。そしてベンは、彼の友人たちについて、そのライフスタイルをよく知っている。ところでその5000人がみんなある宝くじを買った。ベンは、この5000人がくじを買ったことを知っている。また、くじが全部で5001枚だということも知っている。なお、残りの一枚は彼の友人ではない人が買った。そして、この時点では誰も知らないことなのだが、実はベンの友人でないその人のみが当たりだった。さて、この状況で、知識帰属者は「ベンはビルが金持ちになることはないだろうと知っている」と述べるとしよう。ここで知識帰属者は、ベンがくじに当たる可能性に注目しておらず、その可能性を適切に無視している。

 Lewisに従えば、この文脈において、知識帰属は真である。さらに次のように続けることができる。ベンの友人ハリーについても、「ベンはハリーが金持ちになることはないだろうと知っている」と知識帰属者は述べる。とまあこんな感じで5000人の友人のそれぞれについて、知識帰属者はベンに「その人が金持ちになることはないだろうと知っている」と述べるのである。全て同じ文脈で発話されていると仮定すれば、いずれの発話における「知っている」も同じ関係を表しているはずであり、いずれの知識帰属も真であるはずである。

 ここで、この文脈で「知っている」が表す関係をKとおこう。ベンは、<彼の5000人の友人のうちいずれも金持ちにならない>という命題とK関係にある。そして、閉包原理より、ベンは<彼の5000人の友人はくじに外れる>という命題ともK関係にあるはずである。加えてベンは、<宝くじが5001枚だ>という命題とK関係にある。これより、閉包原理から、<彼の友人でない一人がくじに当たる>という命題とK関係にあることになる。ベンは、新しい情報を何も得ることなく、ある人がくじに当たるということを知ることができてしまうのである。

 

 Hawthorneによる解決はシンプルである。ただし、その中身に入る前に一つ予備的考察が必要である。Lewisは知識帰属に関して「信念のルール」を課す(主体が高い確信度を持っている可能性は適切に無視できない)。ところで、<ビルはくじに負ける>は、十分にspecificではないので、Lewisの意味では可能性ではない。そこで、この宝くじ命題を扱えるように信念のルールを次のように改訂しておく。

新しい信念のルール:もし命題Pが主体によって十分高い確信度を与えられているか、与えられるべきであるならば、Pのサブケースを構成する可能性の全てを適切に無視することはできない。

 では、本題に入ろう。我々は先に、知識帰属者の種々の発話行為がなされる文脈がただ一つ存在し、それゆえに各々の発話において「知っている」が同じK関係を指していると想定していた。これを否定するのである。帰属者が「ベンはビルが金持ちになることはないだろうと知っている」と述べる際には、彼はビルがくじに勝つ可能性を適切に無視している(それゆえに、この文脈のもとではベンはビルがくじに負けることを知っていることになる)。しかし、この時「新しい信念のルール」によれば、ベンはビルが金持ちになることはないということに高い確信度を与えているので、ビルが金持ちになっていない(くじに負ける)ということを構成するサブケース(ハリーがくじに当たっている;ゲラルドが当たっている;...)の全てを知識帰属者は無視することができない。それゆえ、ある友人がくじに当たる可能性はrelevantなのである。

 さて、続けて「ベンはゲラルドが金持ちになることはないだろうということを知っている」と帰属者が述べたとしよう。もしかすると直前の主張でビルが勝つ可能性が無視されており、それが継続しているかもしれないので、この段階ではビルが勝つ可能性は無視されているかもしれない。しかし、帰属者がこの手の発話を続けているうちに、遅かれ早かれ今度はビルが勝つ可能性がrelevantになるだろう。Hawthorneの考えに従えば、この手の発話をする中である可能性がrelevantかどうかが変わっていってしまう。そしてそれゆえに、帰属者が一連の発話をなす間、「知っている」の意味論的値は決して一定ではないのである。