村下孝蔵「初恋」の歌詞に関する一解釈

 妙に寝付けなくて久々に村下孝蔵さんの「初恋」を聞いたら、改めて良い歌だなぁと感動し、頭がグルグル動き出して却って眠れなくなった。頭の中に湧いてきた考えをどこかで吐き出さないと永遠に眠れない気さえしてきたので、ブログ記事として書き出してみる。

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知識ロンダリングー鋭敏性不変主義とTransmission principleー

最近読んだJ. MacFarlane (2005). "Knowldge laundering: Testimony and sensitive invariantism" という論文が面白かったので紹介する。

 

知識帰属に関して「鋭敏性不変主義」と呼ばれる立場がある。これは、文脈主義のように「知っている」という語の意味(それが表す主体と命題の関係)がその語の使用の文脈に応じて変化しうるとは考えずを否定し、「知っている」という語の意味は文脈に対して不変だとする〔それゆえに不変主義〕。その上で、主体が当該命題に対して「知っている」関係のもとに立っているかどうかが、評価の状況における主体のpracticalな状況に依存する、と考える立場である。この立場と、証言による知識に関する(controvertialではあるが)広く受け入れられているとされる次の原理の折り合いが悪い、というのがこの論文の趣旨である。

Transmission Principle: If B knows that p, then if B asserts that p and A accepts B’s testimony without doxastic irresponsibility, A also comes to know that p.
ここで "without doxastic irresponsibility" というのは、話者の言っていることが偽だったり、あるいは話者が信頼できなかったりするために聞き手が話者の証言を無視するようなケースを排除するために付けられている。
 
鋭敏性不変主義とTransmission Principleを同時に受け入れると、次のような変なことが起こる。
 アーノルドとベスは車を一台シェアしており、その車はいま車庫*1においてあるとしよう。ベスは数時間前、出勤する直前に、車が車庫にあるのを見た。そしてまたベスは、アーノルドとベスの二人だけが鍵を持っており、しかもアーノルドは今週ずっと町の外にいることを知っている。これらは車が車庫にあると信じるたいへん良い理由である。
 ところでベスは、今日か明日に自動車保険をかけるかどうか決めようとし、それゆえに車が車庫にあるかどうかに関する認識的基準が跳ね上がったとしよう。ここでベスに要求されるのは、ベスが出社したのちに車が盗まれているという可能性を排除できることである。この可能性が排除できない限り、ベスは車が車庫にあるとは知らない、ということになる。
 ところでアーノルドは、依然として低い認識的基準の下にあるとしょう。さて、ずっと出かけていた彼は空港に到着し、晩飯のことなどを考えている。アーノルドは、車が車庫にあると信じる理由を持っていない。なぜなら彼はここ一週間出かけていたし、ベスが車で会社に行くこともあるから。そこでアーノルドはベスに電話をかけて「車は車庫かい?」と尋ねた。ベスは「そうね、私は朝そこにおいてきたからね」と答えた。アーノルドはこの証言を疑う理由を持っていないので、Transmission principleより、ベスは朝に車を車庫に置いてきたのだということを知り、そこから推論して、車は車庫にあるのだと知った(アーノルドの認識的基準は低い)。*2
 さて、二時間後、アーノルドはベスへのサプライズプレゼントを買うためにしばらく空港にいたので、まだ帰宅しておらずタクシーの中だった。そこにベスから電話が入る。ベスはまだ、自動車保険に入ろうかどうしようかと考えており、アーノルドはとっくに帰宅しただろうから車庫に車があるかどうかアーノルドに聞いてみようと思い電話をかけてきたのだった。「車は車庫にある?」と問われたアーノルドは、彼が車を持ち出したかどうか確かめるために電話をしてきたのだと解釈し、「まだ車庫にあるよ」と自信満々に答えた。ベスは彼の証言を信じた。彼女には、アーノルドを信用できないと考える理由もなかったし、彼が帰宅していないと考える理由もなかった。それゆえ、Transmission principleに従えば、ベスは車が車庫にあるということを知っていることになる!
 何が起こったのか。アーノルドは、ベスが与えた以上の証拠を新たに獲得したわけではない。ベスは彼女の証拠を、より低い認識的基準の下にあるアーノルドを介して循環させるだけで、単なる信念を(高い認識的基準を超えた)知識に変えてしまったのだ。これが「知識ロンダリング」である。なかなかに反直観的な帰結ではないだろうか?このような帰結を受け入れたくなければ、もしMacFarlaneの議論が正しいならば、鋭敏性不変主義かTransmission Principleのどちらかを諦めなければならないだろう。
 ちなみに知識ロンダリングは、過去の自分の証言を頼るような状況を考えることで、登場人物が一人だけの例を作ることもできる。元の論文では、ありうる反論に対する応答もあるので興味のある人は確認してほしい。短い論文なので。
 
 

*1:元の論文ではdrivewayだが、イメージしにくいし訳しにくいので車庫にした。

*2:補足:この電話の時点でベスが既に高い認識的基準の下にあるなら、彼女は車が車庫にあることを知らないので、Transimission Principleの前件が満たされないはず。この時点ではまだベスは保険をかけるか悩んでおらず、基準が低いと考えるべきだろう。悩み始めるのはこの電話の後だ、としないとマズイはず。

Lewis. (1979). “Scorekeeping in a language game” 読書ノート

Lewis. (1979). “Scorekeeping in a language game” の読書ノート(レジュメ)です。

 例1. 前提

  • うまくいっている会話の中の任意のステージにおいて、ある程度のことが前提されている。前提は、一つの会話の過程の中で、創られたり壊されたりしうる。
    • この変化はすくなくともある点において、規則に支配されている時点t’における諸前提は、少なくともいくつかの一般的な諸原則を定めることができるような仕方で、それ以前の時点tにおける諸前提および、tとt'の間の会話(および近くの出来事)の経過に依存している
    • 前提が要求されるような主張が存在する。そのような主張が受け入れ可能(acceptable)なのは、要求されるところの前提が実際に成り立っている時その時に限られる(例「フランス国王はハゲだ」はフランスに国王がただ一人存在することを要求する)。
    • 要求される前提が成り立っていない場合、どのような種類の非-受け入れ可能性が生じるのかについてはいろんなことが言われている(偽だ;真理値を欠く;前提が欠けている場合に固有の非-受け入れ可能性だ;ケースバイケースだ)。ここではこの問題には突っ込まない。
  • 必要な前提がないために許容不可能なことを言うのは意外に難しいかも。欠けている前提を要求するようなことを言えば、その前提が存在することになり、結局のところあなたが言ったことは受け入れ可能になってしまう(少なくとも、あなたの会話のパートナーがあなたの言ったことを黙認した場合には(つまり、「フランスに国王は3人いるじゃんか!!」とか言ってくる人がいないならば)そうなる)。
    • だからこそ、突然「フレッドの子どもたちはみんな眠っているんだが、フレッドには子供がいる」と述べるのは奇妙。最初の部分は、フレッドには子どもがいるという前提を要求し、それによってフレッドには子どもがいるという前提を創ってしまう。後半部分は、それが言われたときにすでに前提されていること以上のことを何も付け加えないので、会話におけるポイントがない。
      • 前後をひっくり返して、「フレッドには子供がいて、フレッドの子供たちはみんな眠っている」と言うのは奇妙でない。
    • 前提は、会話の中で多かれ少なかれ規則に支配された仕方で進展すると先に述べた。ここで、一つの重要な支配規則を作ることができる。それを「前提の融通規則」(rule of accommodation for presupposition)と呼ぼう。

 

もし、tの時点で、前提Pが受け入れ可能であることを要求するようなことが言われ、またもしtの直前にPが前提になっていなければ、——他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で——前提Pは時点tにおいて存在することになる。

 

この規則はまだちゃんと述べられていないし、前提の運動学を支配する唯一の規則でもないが、このことを心に留めておいて、次の話題に移ろう。

 

 

 

例2. 許容可能性 (permissibility)

  • 主人と奴隷がいるとする。主人は奴隷を言葉で次のようにコントロールするとしよう。
    • 奴隷化するどの段階においても、奴隷の行為には許容可能なものとそうでないものとの間に境界がある。許容可能な行為の範囲は拡大したり縮小したりする。主人は、奴隷に何か言うことでその境界線をずらす。奴隷は自分の行為が許容可能なものであることを確認するために最善を尽くしているので、主人は何が許容可能なのかをコントロールすることで、奴隷をコントロールすることができる。
    • では、主人はどのように境界をずらすのか。主人は、こういう行為は許容されないぞ、と奴隷に言う。そのような発言の真理値は、許容可能なことと許容可能でないことの境界に依存する。もし主人がこれこれは許容されないと言った場合、もし境界線が静止したままであるならばそれが偽であるとしたら、境界は即座に内側に移動する。許容可能な範囲は、主人の言うことが結局は真であるように〔なるように〕収縮する。これにより、主人は、以前は許容されていた行為を禁止する。(もちろん、逆に許容可能なことの範囲を広げることもある。)
  • 許容可能性についての主人の発話の真理は境界の位置に依存する。境界は規則に支配された仕方で移動する。この規則を「許容可能性の融通規則」と呼ぼう。これは次の通り。

 

もし、時点tにおいて、奴隷が主人にそれが真であるためにある行為の許容可能または非許容可能性を要求するようなことを言われ、tの直前に境界が主人の言明を偽にするようなものであるならば、——他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で——tにおいて主人の言明が真になるように境界がシフトする。

 

繰り返しになるが、これは定式化として不十分。一つには、境界や「他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で」が依然として特定されていない、ということがある。また、もっと重要な問題として、上の規則は境界がどのように移動するかをちゃんとは述べていない

 

  • もし主人が、それ以前には許容可能でなかった諸行為に関して「これこれの行為のうちのいくつかは許容可能だ」と言ったらどうなるか。それらの行為のうちのいくつかが許容可能になるわけだが、どれがそうなのか?
    • 一つの考え:最も許容可能性に近いやつだ!
    • この考えは、正しいかもしれない。しかし、ここで新しい問題が生じる。「最も許容可能なやつ」を取り出すためには、非許容可能サイドの諸行為の間で、どれが許容可能性に近いのかに関する比較できるような関係(a relation of comparative near-permissibility)を与えないといけない。それゆえ我々は、境界のシフトに関する規則だけではなく、このcomparative near-permissibility関係がどう変化するのかにを支配する規則を見つけないといけない。
    • また、主人が、どのクラスの行為がどのクラス行為より許容可能性に近いのかについて述べるかもしれない。その時にcomparative near-permissibility関係がどう動くのかもちゃんと述べないといけない。

 

以上が二つの例である。何の例か述べる前に、余談を挟む。

 

野球のゲームにおけるスコア記録

 

  • うまく行っている野球のゲームにおける任意のステージにおいて、そのステージにおけるそのゲームのスコアとLewisが呼びたい、次のような数の7つ組みが存在する。<rv,rh, h, i, s, b, o> である。
    • rv:来訪チーム(visiting team)の得点(runs)
    • rh:地元チーム(home team)の得点
    • h:表か裏か(hhalf)…表ならh= 1、裏ならh= 2
    • i:イニング数(回)
    • s:ストライクの数
    • b:ボールの数
    • o:アウトの数
  • 野球の規則を成文化してやると、次の四種類の規則からなるはず。
  • スコアの運動学(kinematics〔...なんて訳すのが良いんですかね〕)の特定:始めのスコアは<0, 0, 1, ,1, 0, 0, 0>である。その後、もし時点tにおいてスコアがsであり、tとt’の間にプレイヤーがmの仕方でふるまえば、時点t’においてスコアはs’であり、s’sとmによってある仕方で決定される。
  • 正しいプレイの特定:もし時点tにおいてスコアがsであり、tとt’の間にプレイヤーがmの仕方でふるまえば、そのプレイヤーは不正な仕方でふるまったことになる(正しさはスコアに依存する:2ストライクの後で正しいプレイは、3ストライクの後で正しいプレイと異なる)。これらの規則に従って不正でないようなプレイは、正しい。
  • 正しいプレイを要求する命令:全てのプレイヤーは、ゲーム中は、そのプレイが正しいような仕方でふるまわなければならない。
  • スコアに関する諸命令:プレイヤーたちはある方向にスコアを展開する努力をしなければならない。訪問チームのメンバーはrvを大きくしrhを小さくするように、地元チームのメンバーはその逆をするように努力しなければならない。

 

  • 規則(1)と(2)は構成的規則である。
    • 「スコア」と「正しいプレイ」の特徴づけ。それらの定義というわけではなく、「スコア」と「正しいプレイ」の合理的な定義からの帰結である。また逆に、これらの特定を与えておけば、そこから「スコア」と「正しいプレイ」を定義することもできる。
  • 規則(3)と(4)は統制的規則である。
  • 野球の規則は、原理的には、スコアやその構成要素に関する定義可能な語を用いることなしに、ふるまいに関する命令として形式化されうる。また逆に、野球の規則は、スコア関数(ゲームの局面から数の7つ組への関数)、スコアの構成要素、および正しいプレイの明示的定義として定式化されうる。しかし、前者の方法はルールブックをぜんぶ命令に詰め込んでしまうし、後者の方法はルールブックを一つの予備的な定義に詰め込んでしまうので、これまでそんな定式化がされることはなかった。
  • 代替:野球を操作主義ないし法実在論と同様のものとみなす。構成的規則に訴える代わりに、スコアは、あるスコアボードがそうであると述べるものだ、と考えるのである(スコアボードは実際に置いてあるものでもいいし、審判の頭の中にあるものでも良いし、たくさんの人の頭の中にあるものでも良い)。この見解では、「スコアの運動学の特定」は、もはや構成的規則ではなく、プレイヤーのふるまいが権威あるスコアボードに変化を引き起こす仕方に関する経験的一般化だ、ということになる。
  • いずれの分析が正しいかには興味がない。ここでやりたかったのは、二つの分析が区別できるよということだけ。

 

 

会話のスコア

 

  • うまく行っている会話ないし他の言語的相互作用のプロセスにおける任意のステージにおいて、野球のスコアの構成要素と類似したたくさんのものがある。アナロジーは次の通り。
  • 会話のスコアの構成要素たちは、野球のスコアの場合と同じく抽象的存在者である。ただし、数ではなく、他の集合論的構成物かもしれない。例えば、前提されている諸命題の集合、許容可能な行為とそうでない行為の間の境界、など。
  • どんなプレイが正しいかはスコアに依存する。発話された文は、その真理値や他の点での受け入れ可能性が、発話された時の会話のそのステージにおける会話のスコアの構成要素たちに依存する。それゆえ、発話された文の構成部分(サブセンテンス、名前、述語など)もその内包ないし外苑がスコアに依存するかもしれない。
  • スコアは多かれ少なかれ規則に支配された仕方で進展する。スコアの運動学を特定する諸規則がある:

 

もし時点tにおいて会話のスコアがsであり、時点tとt’の間における会話の過程がcであるならば、時点t’においてスコアはs’であり、s’sとcによってある仕方で決定される。

 

あるいは少なくとも次の通り。

 

もし時点tにおいて会話のスコアがsであり、時点tとt’の間における会話の過程がcであるならば、時点t’においてスコアは可能なスコアのクラスSの何らかのメンバーであり、Sはsとcによってある仕方で決定される。

 

  • 会話の参加者は、会話のスコアの特定の構成要素たちをある方向に動かすよう努力せよという命令に従うか、あるいは単純にそう努力したいと欲するかもしれない。
  • スコアの運動学を特定する規則は構成的規則とみなされるかもしれない。
    • 構成的規則は明示的定義に置き換えられるかもしれない(会話のスコア関数が定義できるかもしれない)。
    • 逆に、会話の参加者の心的スコアボード——何らかのそれにふさわしい態度——によって操作的に定義されるかもしれない。この場合、スコアの運動学を特定する規則は、スコアボードに記録されるものが会話の歴史にどのように因果的に依存しているかに関する経験的一般化となる。
  • 野球の場合、どのアプローチを取っても問題なさそうだった。しかし、会話のスコアの場合、どちらのアプローチにも問題が生じる。
    • もし諸規則が特定する会話のスコアの運動学が深刻に不完全であるならば(そしてそれはありそうなことだが)、スコア関数の候補がたくさん出てきてしまうだろう。
    • 会話参加者のスコアボードを構成する心的表象とは何なのかを、循環を生じさせずに述べるのは難しい。
  • 三つめのアプローチ(中間アプローチ):会話のスコアは、会話参加者のスコアボードがそうだと述べるものだ。ただし我々は、その心的スコアボードとは何なのかについて何かを述べることを差し控えなければならない。ともかく、何らかの心的表象が存在し、次の意味でスコアボードの役割を果たすと想定しよう:それらが記録するものは、スコアが諸規則にその仕方で従うべきであるような仕方において会話の歴史に依存する。スコアボードは何であれこのような役割を最もよく果たすものなのであり、スコアは何であれスコアボードが記録するものだ、ということになる。
    • このアプローチだと、スコアの運動学を特定する規則はある意味で構成的なのだが、スコアの定義に遠回りに入ってくるに過ぎない。それゆえ、スコアの実際の進展がこの規則を破ることもあって良い。

 

 

融通規則

 

  • 野球のスコアと会話のスコアの代打には一つ大きな違いがある。それは、奴隷と主人と例で見た「融通規則」の有無である。
    • 野球の場合、3ボールの後でバッターが一塁に走って行ったらそれは正しい行為ではない。そのプレイを正しくするために要求されるのは4つめのボールであるが、まさにその事実がスコアを変えて4ボールにしてしまう、というような融通規則などない。
    • 言語ゲームは違う。会話のスコアは、何であれ生じることを正しいプレイにカウントされるようにするために要求されるような仕方で進展する傾向にある。常にそうというわけではなくあくまでそういう傾向にあるというだけだし、会話のスコアが他の理由によって変わることもあるのだ、としておこう。それでも、会話のスコアの多くの構成要素は融通規則に従うし、これらの規則は会話のスコアの運動学を支配する規則の中でも特に重要なのだ。
  • 会話の融通規則とはどのようなものか
    • 例1…誰も反対しない場合、言われたことによって要求される諸前提は存在するようになる。このことを特定するような融通規則に従って、前提は進展する。
    • 例2…行為の許容可能な範囲の境界について述べられたことが、主人から奴隷に対して述べられており、しかも彼が述べることを真にするような何らかのシフトが存在する場合、主人がその境界について述べたことが真となるようにその境界がシフトすることを特定するような融通規則に従って、許容可能性は進展する。
    • 以上をふまえて、会話のスコアの融通規則の一般図式が与えられる。

 

もし時点tにおいて、もしそれが真であるかあるいは受け入れ可能であるようになるならば会話のスコアの構成要素snが範囲r内の値を持つということを要求するようなことが言われるならば、そしてもしsnがtの直前において範囲r内の値を持っていないならば、そしてまたしかじかのさらなる諸条件が満たされるならば、tにおいてスコア構成要素snは範囲r内の何らかの値をとる。

 

  • この図式に当てはまる事例はたくさんある。以下ではさらなる例を考察し、それらの共通パターンを見ていく。

例3. 確定記述

 

  • 「そのF」という確定記述がxを表示するのはどういう時か。
    • 次のように考えるのは間違い。①「そのF」という確定記述がxを表示するのは、xが存在する唯一のFである時その時に限られる ②…のは、xが文脈的に決められる談話のドメインにおける唯一のFである時その時に限られる。
      • というのも次の文を考えよ:「その豚はブーブー鳴いているが、垂れ耳のその豚はブーブー鳴いていない」。この文は真でありうるが、真であるためには、「その豚」は二匹の豚のうちの一方を表示しておらねばならず、しかも二匹とも談話のドメインに属する。
    • 正しい取り扱いは次の通り:「そのF」という確定記述がxを表示するのは、xが、何らかの文脈的に決定される際立ち(salience)ランキングに従って、談話のドメインにおける最も際立ったFである時その時に限られる。
      • 豚の例だと、その文が意味しているのは最も際立った豚がブーブー鳴いているが垂れ耳の最も際立った豚は鳴いていない、ということである。
    • 際立ち(salience)はどのように獲得されるか。例:「その猫」
      • 私とあなたが一緒の部屋で話をしている。ブルースという名前の猫も一緒にいて荒ぶっている。この時ブルースは、会話の流れと関係なく際立っている。ここで「その猫」と言う時、この語はブルースを指す。
      • ニュージーランドにいるうちの猫」と述べることで、私はアルバートに言及することができる。アルバートについてもっともっと語り、またブルースについて何も言及しないことで、私はアルバートの際立ちを会話的手段で上げることになる。その結果「その猫」はブルースではなくアルバートを指すことができるようになる。
      • 比較できる際立ちのランキングは会話のスコアの構成要素である。そのため、確定記述の表示はスコア依存的である。それゆえ確定記述を含む文の真理値ないしそれ以外の許容可能性もまたスコア依存的である。
    • 融通規則は、際立ちの運動学を支配する規則の一つである。
      • 例:アルバートが際立っている状態で、おもむろに私が「その猫、君に襲い掛かりそうだぜ!」と言ったとする。もしアルバートが依然として最も際立っており「その猫」が最も際立った猫を表示するならば、私の述べたことは偽である(アルバートはNZにいるので)。私の述べたことは、許容可能であるためには「その猫」がブルースを表示することを要求するし、それゆえブルースが再びアルバートより際立つことを要求する。〔融通規則より、〕先のように述べることで、私はブルースを再び際立ったものにするのである。次に私が「その猫はちゅーるが好きなんよ」と言ったら、「その猫」はブルースを表示する。
      • 比較できる際立ちについての融通規則は次の通り:

 

もし時点tにおいて、もしそれが許容可能となるならばxがyより際立っていなければならないということを要求するようなことが言われるならば、そしてもしtの直前にxがyより際立っていないならば、——他の事情が一定ならば、ある制限の範囲内で——tにおいてxはyより際立つようになる。

 

  • 注意:融通規則は発話された文の受け入れ可能性を保存する必要があるときにスコアのシフトが生じるということを言っているが、だからといってその保存は完璧ではない。融通規則に頼りすぎるのは会話の実践として良いものではなく、ある範囲で紛らわしく着いて行き辛いことを話者は言っていることになる。しかし、たとえその人の述べることが完璧に受け入れ可能ではないとしても、際立ちのシフトがなかった場合の受け入れ不可能性(偽;トリビアルな真理;保証されていない主張など〔例は 349〕)よりはよっぽどマシなのである。

 

 

例4. 来る& 行く

 語りにおける指示の点(point of reference)も会話のスコアの構成要素である。

詳しくは省略

 

 

例5. 曖昧性

 

  • 「フレッドはハゲだ」は(フレッドがボーダーラインにいるなら)境界をどう弾くかに依存して真偽が決まる。線引きには様々あり絵、唯一の正しい境界をピックアップすることができない。
  • 線をどう引こうが関係なく真であるような文については、我々はそれを単純に真なものとして扱う資格がある。一方で、その曖昧性の線引きの範囲の十分に広い範囲で真であるならば(=「十分に真である」ならば)、我々はそれも多かれすくなからあたかも単純に真であるかのように扱う。つまり、我々はそれを主張することを厭わないし、但し書きなしで同意するだろうし、我々の新年のストックに入れるはず。
  • では、文が十分に真であるのはどういう時か?「十分に広い」範囲とは?
    • これは、それ自体が曖昧な問題である。ことによっては文脈に依存する
    • 働いている正確さに関する基準は会話ごとに違うし、一つの会話の流れの中でも変わる。g. 「フランスは六角形だ」…多くの文脈において十分に真だし、また多くの文脈においては十分に真でない。
      • 正確さに関する低い基準のもとではその文は受け入れ可能だし、基準をあげると受け入れ可能性を失くす。
    • 正確さに関する基準も会話のスコアの構成要素だとみなせる。すると、ここでも融通規則が見出される。
      • 基準を変える一つの方法:その基準が変わらないままであると受け入れ不可能になってしまうことを言う。
      • 融通規則は基準を高くする方向へも低くする方向へも働きうる。しかし、ある理由によって、基準を上げるほうが下げるよりもスムーズに行く
        • もしこれまで基準が高くて、より低い基準のもとでのみ真であるようなことが言われ、そして誰も反対しなければ、基準は下がることになる。
        • しかし、たとえより低い基準のもとでなら真であるようなことが言われたとしても、それは完全には受け入れ可能でないように見えるかもしれない。また、基準をあげることは、仮に我々の会話の目的を阻害するとわかっている時でも勧められうるように見えることもある。この非対称性のゆえに、言語ゲームの参加者は、基準を可能な限り上げようとすればそれができてしまうかもしれない。
      • Peter Ungerは、ほとんど何も平らではないと論じた。
        • 「平らだ」は絶対的な語(absolute term)である:平らであるようなものよりもより平らなものなど存在しない。とことで、あなたがこれは平らだ、と主張するほとんどのものに対して、それより平らなものを挙げることができる。それゆえほとんど何も平らではない。
        • 「平らだ」は絶対的な語だ、という前提に反対する人もいるが、Lewisはこの前提は正しいと思っている。
        • 彼に対する正しい応答はこうだ:Ungerは、あなたに基づいて会話のスコアを変えている。彼が、「机は道路より平らじゃんか」と言ってくる時、彼が言っていることは、正確さに関する上がった基準のもとでのみ受け入れ可能である。そして、融通規則によって基準は上がる。すると、道路は平らだというのはもはや真でなくなってしまう。このことは、それがもともとの文脈においては真だったということを変えたりしない。それゆえ元々の文脈のもとでの「その道路は平らだ」と上がった基準のもとでの「その机はその道路より平らだ」は矛盾しないのである。Ungerがやっていることは結局、ほとんど何も「平だ」と受け入れ可能な仕方では言われなくなってしまうような〔基準がメチャクチャ高い〕異常な文脈を作り出しているだけである。そして彼は、その文脈が他の文脈よりもより適正だということは一切言っていないのである。
      • Ungerは同様の議論を「確信している」についても行った。それにより、誰もほとんど何も確信していないと論じた。しかしこれについてもパラレルな応答を与えることができる。

 

 

 

 

 

 

 

例6. 相対的様相

 

  • 「できる(can)」や「に違いない(must)」は大抵、絶対的な(「論理的」あるいは「形而上学的」)可能性を表現するわけではない。むしろ、様々な相対的様相を表現するはずだ。
  • その際、全ての可能性が考慮されることはない。
    • 自然法則を侵犯するような可能性を無視すると物理的様相が得られる。
    • 成立していないと知られていることを無視すると認識的様相が得られる。など。

このことから、様相的述語は多義的だ、と言いたくなるかも。しかしKratzerの言うように、そうだとすると〔いくら多義的だと言っても〕想定される意義がメチャクチャ多くなる。それゆえ、次のように考えるのが良いだろう:様相的述語は多義的ではなく相対的なのだ、と。

  • 相対性は時折明示化される。e. g. 「知られていることからすると (in view of …)」…こういう表現は、どんな可能性が無視されるべきかを教えてくれる。しかし、こういうフレーズがない場合もある。
  • 上のようなフレーズがない場合は、文脈が導き手になる。関連する可能性と無視される可能性の間の境界は、会話のスコアの構成要素であり、様相的述語の入った文の真理値に関わる。
    • 「in view of …」というフレーズは、そのフレーズがかかる文のみに影響するのではなく、その後に続く文の中の様相的述語の解釈に関してさらに何か言われるまではのこり続ける。
  • その境界もまた、融通規則にしたがってシフトする。
    • 政治家の例…省略
    • 認識論の例:〔ルイスの認識論的文脈主義のアイデアがここに見て取れる!〕
      • 常識的認識論者、述べて曰く「私はその猫がその箱の中にいるということを知っている。目の前に見えているのだからね。それについて私が間違っていることなどあり得ない!」

懐疑論者、答えて曰く「君は悪霊の餌食になっているかもしれない。」

  • このように述べることで、懐疑論者はそれまで無視されていた可能性を考慮へともたらす(この可能性が〔適切に〕無視されている限り彼の述べたことは偽になってしまう)。こうして境界は、彼の述べたことが真になるように外側へとシフトする。
  • 一旦境界がシフトすれば、常識的認識論者は負けを認めなければならない。しかし常識的認識論者は、元々の会話のスコアの元では何も間違ったことなど言ってはいなかったのだ。
  • 懐疑論者は反論し難いことを言っているという印象を我々は持つ。これは、融通規則が完全には反転不可能だからだ。境界は、外側には簡単に動くが内側には必ずしもそうではない。この非対称性のゆえに、外側にシフトした境界に照らして真であることが、元々の境界に照らして真であるようなことよりもより真であるような気がしてしまう。しかしこれは単なる印象でしかなく、そのようなシフトによって真理に近づく、なんてことはないのである。

 

 

例7. 遂行文performatives

 

  • 遂行文…Austinは真理値を持たないと言ったが、持つと考えることもできる。この考えのもとでは、遂行文は、その発話をなすことによって実際にそこで想定されている行為がなされる場合その場合に限り真という値を持つ。この時、遂行文の発話によって何が生じるのかは、融通規則によって支配された会話のスコアの変化として記述されるかもしれない。
  • 例えば、婚姻関係は融通規則によって支配された会話のスコアの構成要素である。「この指輪でもって私とあなたは結婚する」と述べる(プロポーズする)ことで、融通規則によってスコアが変わる。
    • だからと言って婚姻は言語的現象ではない!会話のスコアの変化は言語の中だけで影響を持つわけではない。我々の言語仕様は他の社会的実践と混じり合う。遂行文の事例はこのことを教えてくれる。

 

例8. プランニング

  • プランも会話のスコアの構成要素である。(詳しくは省略)

 

 

J. Hawthorne (2002) “Lotteries, Lewis and Preface” 読後メモ

J. Hawthorne (2002) “Lotteries, Lewis and Preface” は、D. Lewisの文脈主義に対する厄介な問題を提示し、Lewisに寄り添いながらその解決を目指す論文である。

 

 提示される問題は次の通り。ベンは5000人の友達がおり、全員がギャンブルで負けまくってスッカラカンになっている。そしてベンは、彼の友人たちについて、そのライフスタイルをよく知っている。ところでその5000人がみんなある宝くじを買った。ベンは、この5000人がくじを買ったことを知っている。また、くじが全部で5001枚だということも知っている。なお、残りの一枚は彼の友人ではない人が買った。そして、この時点では誰も知らないことなのだが、実はベンの友人でないその人のみが当たりだった。さて、この状況で、知識帰属者は「ベンはビルが金持ちになることはないだろうと知っている」と述べるとしよう。ここで知識帰属者は、ベンがくじに当たる可能性に注目しておらず、その可能性を適切に無視している。

 Lewisに従えば、この文脈において、知識帰属は真である。さらに次のように続けることができる。ベンの友人ハリーについても、「ベンはハリーが金持ちになることはないだろうと知っている」と知識帰属者は述べる。とまあこんな感じで5000人の友人のそれぞれについて、知識帰属者はベンに「その人が金持ちになることはないだろうと知っている」と述べるのである。全て同じ文脈で発話されていると仮定すれば、いずれの発話における「知っている」も同じ関係を表しているはずであり、いずれの知識帰属も真であるはずである。

 ここで、この文脈で「知っている」が表す関係をKとおこう。ベンは、<彼の5000人の友人のうちいずれも金持ちにならない>という命題とK関係にある。そして、閉包原理より、ベンは<彼の5000人の友人はくじに外れる>という命題ともK関係にあるはずである。加えてベンは、<宝くじが5001枚だ>という命題とK関係にある。これより、閉包原理から、<彼の友人でない一人がくじに当たる>という命題とK関係にあることになる。ベンは、新しい情報を何も得ることなく、ある人がくじに当たるということを知ることができてしまうのである。

 

 Hawthorneによる解決はシンプルである。ただし、その中身に入る前に一つ予備的考察が必要である。Lewisは知識帰属に関して「信念のルール」を課す(主体が高い確信度を持っている可能性は適切に無視できない)。ところで、<ビルはくじに負ける>は、十分にspecificではないので、Lewisの意味では可能性ではない。そこで、この宝くじ命題を扱えるように信念のルールを次のように改訂しておく。

新しい信念のルール:もし命題Pが主体によって十分高い確信度を与えられているか、与えられるべきであるならば、Pのサブケースを構成する可能性の全てを適切に無視することはできない。

 では、本題に入ろう。我々は先に、知識帰属者の種々の発話行為がなされる文脈がただ一つ存在し、それゆえに各々の発話において「知っている」が同じK関係を指していると想定していた。これを否定するのである。帰属者が「ベンはビルが金持ちになることはないだろうと知っている」と述べる際には、彼はビルがくじに勝つ可能性を適切に無視している(それゆえに、この文脈のもとではベンはビルがくじに負けることを知っていることになる)。しかし、この時「新しい信念のルール」によれば、ベンはビルが金持ちになることはないということに高い確信度を与えているので、ビルが金持ちになっていない(くじに負ける)ということを構成するサブケース(ハリーがくじに当たっている;ゲラルドが当たっている;...)の全てを知識帰属者は無視することができない。それゆえ、ある友人がくじに当たる可能性はrelevantなのである。

 さて、続けて「ベンはゲラルドが金持ちになることはないだろうということを知っている」と帰属者が述べたとしよう。もしかすると直前の主張でビルが勝つ可能性が無視されており、それが継続しているかもしれないので、この段階ではビルが勝つ可能性は無視されているかもしれない。しかし、帰属者がこの手の発話を続けているうちに、遅かれ早かれ今度はビルが勝つ可能性がrelevantになるだろう。Hawthorneの考えに従えば、この手の発話をする中である可能性がrelevantかどうかが変わっていってしまう。そしてそれゆえに、帰属者が一連の発話をなす間、「知っている」の意味論的値は決して一定ではないのである。

Stewart Cohen (2000) "Contextualism and Skepticism"の読書メモ

Stewart Cohen (2000) "Contextualism and Skepticism"の読書メモです。

 

https://drive.google.com/file/d/1OR9VgTv4pnX-ijfI4faYM2VftovOBwB2/view?usp=sharing

 

・Cohenの文脈主義のポイントは、知識帰属者(知識帰属文の主張者)の置かれている文脈によって、主体の持っている理由ないし証拠が知識を帰属されるために十分良いものであるかどうかが変わる(理由・証拠の良さについての基準が文脈依存的

・Cohenは、可謬主義(持っている理由ないし証拠がpの代替と両立してしまう場合でもpを知っているということがありうる)を擁護する。Cohenの立場は可謬主義+文脈主義 (cf. D. Lewisは文脈主義を「可謬主義と懐疑論の中道」として提示していた)

・理由ないし証拠への誓約を強くすると懐疑論に陥りかねない。論理的含意原理(entail principle)は、主体がある命題を知っているためには、主体の持っている理由ないし証拠が当該命題を論理的に含意する(当該命題と非両立的な代替命題を全て否定することができる)ということを要求する。しかしこの要求を課すと懐疑論に陥る。この原理を否定するのがCohenの定式化する可謬主義。

・論理的含意原理を拒絶しても、閉包原理による懐疑的論証がある。ムーアは、閉包原理と我々は日常的知識を普通に持っているということを認め、「我々は懐疑的代替が成立していることを知らない」ということを否定しにかかるが、彼の応答はなぜ懐疑的論証に訴えかける力があるのかを全く説明できておらず、満足いくものではない(論点先取に見える)。Cohenは、この懐疑的論証を、いずれももっともらしい三つの命題が両立しないというパラドクスと捉える。文脈主義を取ると、日常的知識帰属文が真だということを保持しつつも懐疑的論証のもっともらしさも説明できる。これは文脈主義の強み。

・しかし、すんなり扱えるのは巧妙に偽装されたラバの例のような「制限された(restricted)懐疑的代替」のケースのみである。水槽脳事例のような「全面的な(global)懐疑的代替」への応答には問題が残る。一つの方策は、全面的な懐疑的代替を否定するのはアプリオリに合理的だと主張することだが、それをやると私は水槽脳でないということを私は知っているということになり、しかもその知識は偶然的アプリオリなものになる。一方で、Kleinの議論を文脈主義化してやれば、一見良さそうな見解が出てくるが論点先取感マンマンの説になってしまう。懐疑論は嫌なので偶然的アプリオリな知識の存在を認めるしかないのかねぇ...というところでこの論文は終わる。

認識的文脈主義(SEP)まとめ

SEPの"Epistemic Contextualism"(https://plato.stanford.edu/entries/contextualism-epistemology/)の内容を簡単に&大雑把にまとめました(一部まとめていない箇所もあります)。暇な時に更新するかもしれません。間違いなどあればご指摘ください。

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