反事実条件文の文脈主義に関する覚書

 

先日のアンケートの結果(https://twitter.com/MasahiraSho/status/1424703708399505414https://twitter.com/MasahiraSho/status/1424704491299872771)おおよそ予想どおりだった。やっぱ(A)の方が気持ち悪いよなぁ… とはいえ、(B)にも気持ち悪さを感じる人がそこそこいることや、(A) への違和感がそこまで強いものではなさそうだというのは個人的に面白かった。テキトーなアンケートだったが、もっとちゃんとデータをとってみたいところではある。

 

ちなみにここでの例は、Jonathan Jenkins Ichikawa (2017) *Contextualising Knowledge*という本からとってきた。問題は、①「もしガマが今夜殺されるならば、アラクは明日、王位につくだろう」と ②「もしガマが今夜殺され、アランも今夜殺されるならば、アラクは王位につかないだろう」はいずれも真っぽいし問題なさそうなのにもかかわらず、単にその連言を取っただけの(A)は受け入れ難いということだ。どう考えたら良いのか。

 

選択肢1は、①は実は偽だ、と見なすことだ。そうすると、(A)も偽ということになる。①も(A)の気持ち悪さは、(A)が偽だということからきているのかもしれない。

しかし、この選択肢には難しさがある。なぜ①は自然に受け入れられるのに(A)は受け入れ難いのかをさらに説明する必要があるだろう。そして次に、①が偽だとしてしまうと、ほとんどの日常的な反事実条件文が偽になってしまわないか、という懸念がある。

 

選択肢2は、②が偽だとすること。しかし、アランが殺されたのちに王位につくというのはありえないだろう。この選択肢は無理筋っぽい。

選択肢3は、(A)を受け入れてしまうこと。しかしIchikawaは、「非常に直観的コストがかかる 」として退ける。

 

上のアンケートをとったのは、(A)が本当に受け入れ難いのか気になったから。実はある人とこの例について話したとき、その人は(A)にさほど違和感を感じないと言っていた。僕は結構強く違和感を持ったのだが、もしかして直観がバラけるのか?と気になった。結果は、割と多くの人が多少は違和感を感じるというものだった。とはいえ、(A)を受け入れることの直観的コストは言うほど高くないのかも。

 

もう一つ面白いのが、(A)と左右を入れ替えただけの(B)は、(A)に比べれば自然に読めてしまうということ。(B)の方が(A)よりもキモくない、というのは説明が必要そう。

 

Ichikawaは、反事実条件文に関する文脈主義を取る。反事実条件文「もしAだったならBだっただろう」が真かどうかは、標準的には、Aが成り立っているという点を除くと現実世界ともっともよく似ているような可能的状況(可能世界)の集合を考えてやり、そのような可能世界の全てにおいてBが成り立つかどうかで決まる(ざっくり)。反事実条件文の文脈主義は、その際考慮にいれるべき可能世界の範囲が発話者の文脈に依存する、というアイデアだ。

 

この考えを取ると、①と②はそれぞれ異なった文脈で真だが、(A)はどんな文脈でも偽だ、ということになるはず。仮に(A)を主張すると、その文脈で関連する可能世界の中で、アランが今夜殺される最近接可能世界たちの全てにおいてアラクは明日王位につくが、その可能世界たちの中でアランも今夜殺される世界においてはアラクは王位につかない、と言われていることになる。

 

割といけそうだなと個人的には思う。あと、この考えをとれば、(B)が比較的自然な理由も説明できそう。(B)の前半部分では、アラクが今夜死ぬ可能性は考慮に入っていなかったが、途中で文脈がシフトし、アラクが死ぬ可能性が考慮に入ることで、後半部分が主張されている、という感じで考えれば良さそう。ではなぜ(A)だと途中で文脈がシフトするように見えないのか。差し当たり、一旦念頭に置いてしまった可能性は、そう易々と無視できないので、考慮する可能性を減らす方向へのシフトは難しいのだ、と考えておけば良いかなと思う。

 

ちなみに、(B)でも気持ち悪さを感じた人が多少いたようだ。そのキモさは、一息で言ってしまっていることに由来しているのではないか?例えば次のようにしたらどうだろう?「もしガマが今夜殺されるならば、明日アラクは王位につくだろう…あ、ちょっと待って。もしガマが今夜殺され、アラクも今夜殺されるならば、明日アラクは王位につかないだろう」。間にワンクッション挟むことで、文脈がシフトする感じが出て、より違和感が減るのではなかろうか?